メダルゲームライフ最後の伝説
2026.3.6
いよいよもってメダルゲームライフ史上最高で最後の伝説を作り上げました。
【 預け200万枚到達 】
ビデスロ・ビンゴ系を一切やらずプッシャー系のみでこれを達成した人はいても片手で数えるぐらいじゃないかと思うが。
下手したら前人未踏。
1店舗だけじゃ絶対に辿り着けなかった景色。
その内ざっくり180万枚ぐらいはアニマルワールド百獣王での功績であり、まさに自分の時間・命を削って得た賜物と言っていいでしょう。
メダルを増やす道程を楽しむ事に価値があり決して無駄では無いと俺は思っている。
じゃあここから300万枚なり上を目指すのかという話となればそれは御免こうむるし、
今はそもそもこのご時世の様々な問題によって現実的に不可能に近い。
ここで正真正銘 打ち切りということで。
ここがメダルゲームライフの完成形・言うなら最高到達点という事で伝説作りに励むのは終わりにしたいと思います。
特に最後の数千枚は勝負という事で気を張りすぎたのか、中々思うように増えず四苦八苦しておりましたがそれもまた1つの思い出という事で。
ちなみに200万枚達成の最後の決め球は火山神配置4連打でした![]()
①メダルゲームライフの生い立ち・ 修業時代編 (2003年~2010年)
小学校3年生の頃に亡き祖父が【マリオン】という系列のゲームセンターに連れていってくれたのが本当の始まりだった。
(マリオングループは2026年現在撤退済み)
お兄ちゃん的な存在の叔父(祖父の息子)に4号機の北斗や押忍番長を習い、スロットに明け暮れる今思えばある意味終わってる小坊でしたね![]()
そこではメダルゲームの類は特に触らずにスロットだけを極めていきました。
定期的に祖父と家族とその店へ通い遊び、今思えば充実しすぎていたと沁み沁み感じます。
そこから3年後。小学6年生。
同級生と共に近所(といっても学区外の距離)にあった
【ファンタジーアイランド】(※現モーリーファンタジーの先代)に遊びに行ったのがメダルゲームライフとしてはきっかけとなりました。
当時100円15枚のレートで300円程度の軍資金を握りしめながら必死にキッズメダル機で増やそうとしていたあたり、最初は皆誰しも同じ道を通るんだと今さらながら思う。
そこで同級生である師匠の趣味がメダルゲームだということを初めて知り、メダルゲームのノウハウを学ぶ中で本格的に仲良くなり元々いたもう一人の友人(言うなら同期)と3人で学校内でも外でも行動をする事が増えました。
学校が終わればすぐに下校→ゲーセンへという流れの毎日から当時の小学校教諭(老婆)からも
【またファンタジーアイランド?】
と店舗名まで名指しなあたり、完全に行動全バレしてました(笑)
事実、我々二人(同期)は始まりである【toアミー漁】を師匠のメダル持ちで勉強させてもらう毎日でした。
私に関しては元々マリオンで叔父から培ったスロットの知識があったので、4号機 押忍番長や秘宝伝、吉宗・北斗といったスロットでメダルを増やす日もありました。
(当時レートは等価払い出し・100円30クレジット)
そして伝説のメンバーとなる
他校の人達であったりゲーセンに住み着く大人に会ったり 文字通り伝説の方々とゲーセンを通じて仲良くなり出したのもこの辺りからだった。
(後の社長であったり、幼稚園時代の同級生だったり、他校の女子だったり)
当時はその店のリーダー格である1つ上の先輩と師匠がそれぞれ4万5000枚で預けメダルのトップ争いをしており、
次いで社長や1個上の女子先輩が2万・3万枚と続いており、当時の俺には彼らの存在はメダル界の憧憬に映っていた。
昔はメダルが多い人=正義という風習があったのも事実(笑)
かくいう俺は多い時で4000枚、ピンチな時で1000枚切りそうな預け枚数をなんと数年間に及ぶ膠着状態でのメダルゲームライフでした。
逆に言えば破滅を免れるギリギリのラインで勝負ができていたワケで、当時は言わずもがな苦しい状況でしたが
桁違いな大量保持を果たしてる今にして思えば、
この頃のメダルゲームライフの方がスリルがあって楽しかったハズなんだよな。
toアミと皆との交流が毎日の楽しみになり、間違いなくこの時から自分の人生が始まったといっても過言ではない。
人生に色が付き始めた瞬間でした。
そして・・・・・・。
②震災復興編(2011年~2013年)
2011年3月11日に発生した東日本大震災。多くの犠牲を出したあの忌まわしき震災。
人命やライフラインは当然のこと、人々から娯楽という癒しさえも奪っていった。
俺や仲間たちは原点であったホームを失い、ゲームセンターという交流の場を失なった黄金の軍団たちはポツリポツリと姿形を消していった。
ライフライン復旧にある程度の目途が経った頃、ホームの系列店が先に営業を再開した。当時はこのご時世に不謹慎だと非難する人も多くいたのは事実だが、先の見えない苦しい毎日の中で闇の中にいた俺には本当に命を再び吹き込まれた瞬間であった。
そこにはいつもと変わらぬ師匠やtoアミー漁、ゲームセンターの独特な雰囲気があり本当に救われたのを覚えている。
修業時代のピークであった49800枚。そこから衰退し震災前日には約2万枚まで落ち込み、これが震災により0へと変わる。
あの輝きを取り戻さんとばかりに当時は鬼になり立ち回ったのを覚えている。いま思えばこの時のヒキが文字通り【全盛期】というべきか。この時が間違いなく物語の主人公であるなら、今は2部作3部作で弱体化補正のかかった旧作の主人公扱いですね。
当時は1日の払い出し制限(1000枚)という鬼畜仕様の中でホントにうまくやったと思う。
甲斐あって1年後にはピークを超えて自身初の5万枚を持った時は感動に震えるというより、1年でここまで(しかもほぼアミー漁一本で)たどり着いたヒキに軽く青ざめていた自分がいた。![]()
貢献を果たしたのは言わずもがな伝説の礎となった【天地系20連勝】(内訳:2000枚が約8割強)でしょう。
周囲からの尊敬も驚異も憎悪もすべて受け止めてやりました(笑)後の遠征・アミー漁店(故一関)での実戦の中でも、この伝説は達成が非常に困難どころか半分(10連勝)も掠らなかった事から文字通りバケモノであったと改めて実感する。
震災とともに繋がりを失った仲間たちとの時間を埋めるように、友人のTや阿部といった新たな仲間を引き連れて2年ほど実戦。












