共有。


意志を人に対して持ち、向ける意味が分からない。


共有してきたつもりでいた。
100%受け入れてきたつもりだが、何故か、身体が足を引っ張る。それは俗に言う、共有とは違うのだろうか。


私には、意志もなければ、意志を持つ意味も分からない。


活字にすると、奇妙さが際立つが、私にとっては、日常の普通な自然体の自分。

たまに、自分が捉えてる言葉の意味や、感覚が、人とのヅレを感じる事がある。

何故、将来の話や先の希望を沢山、話合うのか。

何故、人に分かってもらえないと嘆くのか。

何故、他者と自分をそんなにも比べるのか。

何故、他者を羨んだり、憧れを抱くのか。


不思議と思いつつ、一応、一般的に理解し合わす事も、それなりに出来る。


最近知ったのだが、変わっているのは、私の方だと心理士さんに言われ驚いた。


反面、子供達には、

他者との時間の共有の大切さや、
自分の気持ちを伝える工夫の大切さ、
人に寄り添う事の大事さ、
頼る強さを身に付けて欲しいと願い伝えてきた。


人との関わりの中で得られる物は多く、特に同年代が切磋琢磨しながら影響や刺激を受けれる時期は限られ、大切な財産になる。


学生時代は、境遇や、趣味、感覚の似た中でいれる。
社会人になると、年代、思考、感覚の違う中で、時間を共有しなければならない。


学生時代の土台が社会に出てから強みになると考える。



只、自身にあてはまらない。
あてはめれないという機能的な問題なのか。


友達も多い方ではないが、恵まれている。
只、どこか、隔たりが私にある気がする。
自分との共通項がない。
悩みや、苦悩がない。捉えられないのか。 

自分というカテゴリーがない。
響きとしては、とてもしっくりだが、誤解される言葉の使い方かもしれない。
正解なのかは微妙だ。

子供達に対しての考えに、矛盾が生じる。
が、どちらも、紛れもない自分。


自分が出来ない事を、子供達には、勝手に願い常々意識し、時折、節々で伝えてきた。


結局、自分と向き合わなければという考えに至り気付き、驚愕した。

子供達は、自己管理が出来、現実社会と自己との共有の中で、試行錯誤している。

過去を後悔したり、先の不安に嘆いたり、認められたいと願い向き合っている。

不思議な悩みを抱えられるという意味で、
少なくとも、私とは違う仕上がりだ。


気付けば、かなり先の前方にいる子供達。 


せめて、同じ辺りに行き、つまづいた時に動ける自分で、在りたい。