理解できない「事」となった時、知識と経験と状況からの仮説を、結論としてしまう。


息子は、日々体調の善し悪しに左右されることなく、幻聴の中にいる

それは、日々の「事」となる。
自身の考えやすい根拠の中、答え付ける。故に、理不尽な思いを、付けた結論にぶつける。

到底考えにくいと言わざるを得ない根拠だとしても、一度結論付けしてしまうと、疑問視できなくなるどころか、更に理不尽さが際立ち、火に油を注ぐ様に、有事の深刻さはワンランク上がる。
二択。
0か、100か。

自身の視点で有事や、他者を全て、理解する事は難しく、模索しながら、少しずつ事の片鱗が見えてくるよう自身も成長しなければならないと考える。

穿った見方をし、拒否してしまう事が、どんなに勿体なく、自身を狭めてしまうか。

人は、違うから、適材適所補い合い、狭い家族の枠組みの中でも、助けあっている。

それは、独自で、似た家族はあっても、すっかり同じではないだろう。

例えば、年齢関係なく、社会人になったら、子供達は、お正月祖母にお年玉を渡す。
それまでは、親である私達から。

結婚当初、そんな概念がなかった私は驚いたが、いい考えだと感銘した。

せっかくの違いを、面白く受け止めたり、知識としたり、取り入れたり。

ある一片の違いを拒絶して、遮断してしまう事が、息子にとって、良い違いとの出会いも奪ってしまう。

それは、とても残念だと、言葉を砕き、受け取りやすいよう、私の考えを話した。

息子に、こんな考え方もある事を、知識としてでも、持っておいて貰い、有事の時、選択肢の一つの候補になってくれたり、気持ちの切り替えが出来るきっかけにでも、なってくれたらと、願う。