お久し振りです。十四夜さんのブログにあるキマグレさんのコメントに触発されてブログを書こうと思いました。

 

聖書はもういらない | 野原花子 | 宗教入門 | Kindleストア | Amazon

 

のレビューより 引用はじめ

 

 

板風


カルトはエホバや統一教会だけの問題ではないと気づかされる

 

 

 明治以降日本ではキリスト教が広まったが、全体としては他の宗教より尊重され恵まれていたと思う。 なぜなら、日本人でキリスト教を奉じたのは、知識人や貿易商など、外国文化になじみやすい裕福な層が多かったからである。矢内原忠雄・有島武郎・新渡戸稲造・内村鑑三・賀川豊彦・遠藤周作・三浦綾子・曽野綾子・佐藤優など、キリスト教信仰を「売り」にする有識者というジャンルさえあって、一定の需要があることからもわかる。さらに日本にはミッション系の大学が数多くあるが、多くは仏教系大学や神道系大学より偏差値が高く評判が良い。これらの背景には、日本人の西洋文化に対する劣等感と憧れがあったことは否めない。もちろんこれら有名人が奉ずるキリスト教は通常、良識ある人が眉を顰めるような「狂信的」なものではなかったことも理由の一つではある。ほぼ同じだけ信者がいると思われる創価学会において、創価を売りにする知識人などいないどころか、ネット上では今もなお蛇蝎のごとく嫌われているのにくらべれば、日本におけるキリスト教にたいする批判や攻撃は、非常に少ないとみるべきである。


 しかし冷静に考えれば、これはかなり不思議なことである。創価学会や日蓮宗系が日本人に嫌われるのは、日蓮宗を受け入れない者は行いがどんなに善良であれ地獄に落ちると叫ぶからである。だがこの点ではキリスト教も全く同じなのだ。もちろん最近のカトリックやリベラルなプロテスタントの上層部はやや方向性を改めており、またさきの「有名人」なども大体はその範疇に入る人が多いので表面化しないが、

 一般的なキリスト教信者、とくにかなり多数を占める福音派=「聖書信仰」派の人はそうではない。聖書信仰派の主張は「聖書は一語一句が誤りのない神の言葉であり、人間はその命令にひたすら服従するのが務めであり、それ以外は滅びの道しかなく、聖書の神を受け入れない人のヒューマニズムや、一般的な善行は、神の前には無価値である」ということである。相当狂信的な学会員ですらなかなか言いそうにないことが、キリスト教徒の中では「あたりまえ」なのである。


 著者もまたプロテスタントの信者であり、人生の究極の知恵や規範をすべて聖書に求める聖書信仰者である。著者の母は、もうすぐキリストが再臨し、自分たちが携挙されることを夢みるほどの人である。しかしある時著者は精神疾患にかかり、家庭が崩壊し、すべてを失う。子どものころからキリスト教を信じ、高校生の時に洗礼を受け、10分の1献金をするのはもちろん教会のあらゆる仕事に全力をもって尽くした自分と自分の家族が、いったいなぜこんな目に合うのか。つまり「神はいない」ということではないか。そう気づいたとき、社会に対する見方の一切が変わり、いままで非キリスト教的として相手にしなかった人間観が自然なものに思える一方、

 聖書が何の保証もなしに人間を一方的に縛り付けるものでしかないと気づくのである。


 かつてダーウィンは一人娘を失った時、神はいないと確信した。キリスト教の神は全知全能である。悪魔は神の承認のもとに活動している。この世に理不尽や不幸があるなら、それは神が望んでいることと解釈するのが自然である。つまり神は人間を救わないのである。あるいは神など最初から存在しないということになる。これは屁理屈でも何でもなく、実際本書帯に書いてる通り「人間を救うのは人間だけ」なのである。

 

 ここで注意すべきは、著者は決して「エホバの証人」や「統一教会」などといった評判の悪いカルトの信者ではないという点である。にもかかわらず、

 キリスト教に入信していたころの彼女の発想は、エホバなどを盲信している人のそれとなんと似ていることか。聖書など特定の経典や教祖の一言一句を誤りなき言葉として狂信し、世間の良識も科学的真実もそのフィルターでしか見ないという点では瓜二つである。

 日本では創価に比べ、キリスト教が非難されることは少ないけれど、教えの排他性・異常性というのは福音派を中心にかなり強度のものと気づかされる。あえて邪教というなら、邪教はエホバ・統一教会・創価・幸福の科学だけではなく、「良識あるキリスト教徒」も実は心理レベルではたいして変わりないのである。
 

___________ 引用終わり

 ところで、拉致監禁強制改宗に関与していたのはプロテスタント系特に福音派牧師及び信徒が多かったのは周知です。

彼らが違法的人権侵害を平然とやりながら良心が痛まなかったのは、彼らの中のカルト性、狂信性が原因でしょう。

  福音派教会に通う岡山のツーリング好きのブロガーさんは拉致監禁問題について一度は記事にしてみたらどうですか。米本さんのブログ

に顔をだしているんだからそれくらいはしようよ。そういえば、岡山には倉敷めぐみ教会という拉致監禁に関与した教会がありましたね。

 

   上記リブログの中にこういうくだりがある。

 

・・テーマである「神の恵みに預かる人」とは「神様によって救われる人」と

言ってよいだろう。

その話の途中である姉妹が

「私のような人でさえ救われるのだから、皆も救われて欲しい」

と声を震わせえ泣いていた。

 

 

  同じ同じ、昔自分も「私たちは救う側」「神から救う使命を与えられて私たちは恵まている」や

「(御言葉やメシアをしらない)彼らは救われるべき哀れな人達」と思い込み、上から目線の選民意識に酔っていたもんだ。

 

 

 「キリストは好きだが、キリスト教信者は好きではない。キリスト教信者はキリストのようではない」

by マハトマ・ ガンジー

( 諸説あり)