利他主義とは利己主義の反義語で、自分以外の他の人のためになることをしなさいという考え方だ。 

 一般的には良いことだと信じられているか、だからこそ曲者なのである。

 まずは人間の集団の最小の単位である家族のためにがんばる。それは健全だ。自分や子どもが生きるために働いて、お金を稼がなければならない。自分の産んだ卵を自分で食べちゃうようなグッピーみたいな生き物もいるが、基本的に動物にとっては自分か生きることと、自分の産んだ子どもたちをうまく育てるということは、種として存続するために一番重要なことではある。

 しかし、「会社のため」と言い出したり、もっと大きくなると「村のため」 「国のため」、

 さらには「世平和のため」とか、旧統一教会信者だったら「神のため」とか単位が大きくなるにしたがって、どんどんいかがわしくなっていくことに気づくだろう。

 

 利他主義と聞くと 、人間として素晴らしい模範的な考え方と思っている人が多い 

が 、と んでもない 。

 

 本当は 、利他主義という言葉は 、

権力者が被支配者層を呪縛するための呪文なのだ 。 

 

 現在の権力は資本主義なので 、あなたが 、利己的に 、自分の幸せ 、

自分の楽しみ 、 自分の喜びのために 、「 ネコ 」のように生きることを選ぶと 、

 資本主義はそれを「 けしからん 」と非難する 。

 

  なぜなら 、 それは資本主義にとって役に立たない生き方だからだ。

 あなたを非難する際に使われるのが「 利己的」「利己主義 」と いう言葉なのだ。

 

  だから「 利己主義 」はこの文脈では悪口なのだ 。

 しかし資本そのものは利潤を追求を目的とする徹底的な利己主義だ。

 

 国民の「 利他主義 」は権力者の「利己主義」のためのスローガンになっている

 

 そし て 、利他 主義の行き着く先は何かというと全体主義国家だ。

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池田清彦著  人生に「意味」なんかいらない P65-66より引用

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 旧統一教会のモットーは「為に生きる」だ、解散請求後も対社会的なイメージを考慮して「為に生きる」をアピールして家庭連合をあたかも「奉仕団体」のように擬態しようとしていた。

 しかし、考えてみれば信者側にとっての「為に生きる」「自己犠牲」「利他主義」

は結局のところ教団や教祖一族にとっては「利己主義」にすぎない。

 要するに、「為に生きる」のスローガンは信者は個人の楽しみや利益を捨て「(教団の)為に生きろ」という搾取するための方便にすぎない。

 もし、現役信者が教会活動を辞めて、「ガザで難民支援のために活動したいです。」とか「献金しないで被災者施設に寄付してそこでボランティア活動したいです。」とか言ったら教団はすんなりその信者を為に生きてますねと称えて送り出すだろうか?

 信者は誰でも「自己チュー」とか「利己主義者」と陰口を言われたくないし、同調圧力もあるので個人や家庭の事情を優先できない非常に息苦しい団体に転じてしまう。 戦前の日本も御国の為天皇の為といえば誰も反論できない空気だった。 

個人主義的な考えを持つ人物は「非国民」と排斥された。

 旧統一教会でも同じである。

 組織より個人の事情を優先すると「貴方はカイン的」とか「サタンの誘惑に負けている」と叱られる。

 福音派などでは「聖書的でない」とか「非クリスチャン」などと非難されるのだろう。

 人間は共同体の中で排除されるのは苦痛であるから、「組織や教祖の為に生きる」を義務的にこなす。

 逆に「組織や教祖の為に生きる」(例えば高額献金をしたり)すれば

教団という共同体の中で賛美され承認欲求が満たされ脳の「報酬系」を刺激されるので益々「組織や教祖の為に生きる」を実践してしまう。

 池田清彦先生が言うように

「利他主義という言葉は 、権力者が被支配者層を呪縛するための呪文なのだ」

 「絶対信仰」とか「為に生きる」とかは個人の個性を奪う全体主義、独裁主義団体につながる。

 もちろん、どんな組織でも個人の利己主義を際限もなく許容してしまうと共同体が崩壊してしまうから利己主義を制限しないといけないのは自明だが、利他主義ばかりを優先させる組織は全体主義化(カルト化)し権力が腐敗するに違いない。

 

 

  利他主義は「他人軸で生きる」になりやすい。

はい、カルト批判のこのブログも旅行と一緒で自己満足なんです。自己満で十分。

  「神の為」とか「メシアの為」とか自己犠牲を美化されて教祖家庭に利用されるなんて馬鹿らしくない?