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続きです。

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前回は、A氏が、統一教会の問題は、文鮮明氏の弟子たち(つまり統一教会の幹部たち)が、文鮮明氏の教えを理解せず、自分に都合よく誤解・曲解することによって、教会をサタン圏にしてしまったことにあるという主張をしたところまで書きました。

つまり、A氏の主張では、文氏及びその教えは正しいが、幹部がそれを理解していないために、組織はまったく間違ったものになった。教会員が教会に失望するのはしかたがないが、それが文氏や教えの間違いにつながるとはいえないという立場です。

それに対して、B氏が猛然と「責任」という観点から反論し、私もやや違う立場から、同じく「責任」の問題を論じました。

まず、B氏は自分がもともと統一教会や文鮮明氏に懐疑的だったわけではなく、人並み以上に理想に燃え、『原理講論』も42回読み、御言も読んで、言われることを実践し、納得ができないことは教えを請うために人を求めていったという歩みがあったことを最初に断りました(確かにそれは私も知っており、初めて出会った頃は信じたい心と信じられない心が葛藤している最中でしたが、それでもかなり熱心で真摯な信仰を持っていました…それだけに葛藤も大きかったのでしょうが。その後、統一教会はインチキであるというスタンスが明確になっていきました)。

わからないことがわかるようになると、そこからさらに大きな疑問が生じてきます。それが解決すると、またさらに大きな疑問が起きます。しかし、教会内部で質問すると、「それは考えてはいけない」という回答が返ってくるというわけです。教会の幹部たちは、自分も信者も思考停止状態に置くことによって、組織を維持しようとしていたからです。

※私は、そればかりではなく、単に幹部たちにもわからず、答えようがなかったという要素も大きいと思います。そもそも、統一教会の教えは俗諦レベルにとどまるものですから、その範疇を超える問題には答えようがありません。ただし、俗諦レベルにとどまるからこそ、一見わかりやすく、もっともなもののように見えるわけです。

しかし、B氏はそれでも追求を続け、教えの整合性を維持しようとしているうちに、ふと、もしすべてがインチキであったと仮定したら…ということを思いついたのだそうです。そして、恐る恐る「すべてがインチキである」という前提で考えると、見事にすべてのつじつまが合ったというのです。


それと同時に、日本の統一教会では、文鮮明氏の真意を巡って、いろいろな信者が文氏の言葉からさまざまな解釈を引き出しているのですが、本当に本人がそういう意図で発した言葉かどうか、誰も確認していないということに気がついたそうです。

そして、どうも日本人には、言葉を発した本人が深く考えずに言った言葉から、本来の意図にはない深い意味を汲み取ってしまっているのではないか、それが文鮮明氏の真意として信じられ、勝手に感心している可能性があるのだが、それは非常に危険ではないかというわけです。

このあたり、内田樹氏が『日本辺境論』で書いていた、辺境人の「学び」は効率がいい、という内容にもつながるなあと感心しました。

そして、B氏も統一原理や文鮮明氏の教えに魅力があることは認めます(私も条件付きで認めます…宗教を深く学んでないけれども、関心や多少の知識がある人にとっては極めて魅力的です)。少なくとも、一見すると首尾一貫しており、非常に納得できる内容が説かれているからです。

※まあ、私に言わせれば宗教的に無知だから(過去の自分自身も含めて)ということになるのですが、しかし既成のキリスト教などより納得できることは間違いありません。なぜなら、深く宗教を知らない現代人にとって、キリスト教で納得できない部分を合理的に(常識的に、とは限らない)説明しようとする意図から始まっているからです。

しかし、B氏は、それこそがインチキであることの根拠になりうるとします。

というのは、彼は教会を離れた後、仕事上などで何度も詐欺師に騙されたのですが、詐欺師に共通するのは、まったくインチキ臭さがない、とても詐欺師とは思えないことだというのです。それは当然で、詐欺師らしければ詐欺などできません。そして、話の内容も首尾一貫し、きちんとしている(ように見える)というわけです。

そのような体験を通して悟ったことは、世の中にはそういう人種、つまり最初から騙そうとしている人たちがいるという事実でした。そして、彼らは結果に責任をとろうとはまったく思っていないので、もっともらしいことをいくらでも言えるのだ、自分の思うとおりに物事をコントロールするためなら、どんなことでも平気で言えるのだということだったそうです。だから、コロッと騙されてしまう。

もし、最後まで責任をとるつもりがあれば、自ずから話せることは限られてしまいます。最初から責任を持とうとは思っていないので、どんなことでも言えるわけです。

それがわかった時、B氏は「同じだ!」と思ったといいます。

大勢の人たちが希望と理想に燃えて統一教会に入ってきたにもかかわらず、それらの人たちの大半は悲惨な状況にある。一部の良心が欠落したような人たちだけがうまい汁を吸っている。しかし、常にもっともらしいことを語り続けて人を引き寄せた文氏は、それに対してまったく責任をとろうとしていません。

とするなら、最初から文氏は責任をとるつもりなどなかったと考えると、すべてのつじつまが合うというわけです。

そして、文氏を擁護する人たちが言うように、組織は間違っているけれども文氏は正しいと仮定すると、統一教会の末端で起こっている悲劇について誰が責任を取るのか、ということが問題になると指摘します。

弟子たち(幹部たち)が悪いためにさまざまな問題が起きているのだとしても、文氏を別格の存在として責任がない立場に置くと、その下の誰も責任を取ろうとしませんから、自己破産だの自殺だのまで起きている事態に対して、末端にいる当人たちが責任を被るしかなくなります。

でも、それなら、人類でもっとも優れた資質を兼ね備えたはずの真の父・メシアが責任を取らないのに、もっとも末端の弱い人たちに責任が取らせるというのは酷だし、責任を取れるはずがないではないか、それでいいのか、というわけです。

そして、幹部たちがみんな金集めに狂奔し、その結果として末端信者が苦労しているわけですが、それは本当に幹部の独断だったのか、本当に文氏の指示はなかったのかということについては疑問が残るとします。文氏が指示が一切ないのに、すべての幹部が献金集めに走るということがありうるか、ということです。

さらに、文氏の指示ではないとした場合、末端信者の悲惨な状況に対し、真の父母・救世主であるはずの文氏が、組織の状態を知らなかったのだとすると、知らないという点で文氏は無能だということになりますし、組織の状態を知っていたけれども、それを改めなかったとすると、過ちを改めることができないという意味で、やはり無能だということになります。どちらに転んでも無能だというわけです。

B氏は、文氏と教えが正しいと擁護する人たちは、組織が悪い、誰が悪いということは言っても、末端信者の悲惨な状況に対して誰も責任を取っていないという現実に対しては誰も正面から向き合っていないと糾弾します。分派を含め、いろいろな人と話したけれども、誰もその一番見たくない現実は見ようとしない。

なぜなら、文氏と教えが正しいという前提を維持しようとしたとき、他のことについてはどんな屁理屈でもつけることができますが、その悲惨な現実に対してだけは答えの出しようがないからです。

もし、文氏が本物であるというのなら、自ら責任を取るべきであろう。また、文氏が正しいと主張するのであれば、そう主張する人が自ら文氏の身代わりとなって責任を取り、文氏を守ろうとするべきではないか。それを誰も責任を取らずに、末端の信者がバタバタと倒れているというのはおかしい。

文氏を擁護するのであれば、その問題に正面から向き合うべきであって、それをしないのであれば、どれほど立派なことを言っても現実逃避に過ぎないというのがB氏の主張です。

そして、その現実に正面から向き合えば、詐欺師が徹頭徹尾もっともらしいことを言い続けるように、文氏には最初から責任を取るつもりなどなく、出発点(すなわち動機)からすべてがインチキだったと解釈するのがもっとも合理的な結論だろうということになるわけです。

これに対し、A氏はそれはその通りで、一切反論のしようがないと答えました。だからといって、ご自分の考え方が変わったわけではないようですが。まあ、ご本人がその答えを求めて模索している最中ですから、結論を押しつけられてもという感覚もあるのだろうと思われます。

ということで、私の考えは次回に…

前回までの内容で、A氏の、統一教会の問題は弟子たちが文氏の教えを実践せず、誤解・曲解によって教会内にサタン圏を作ってしまったことにあるという主張と、それに対するB氏の、教会特に末端信者の惨状に対し、文氏をはじめとして誰も責任をとろうとしていない実態を見れば、そもそも最初からインチキで、ちょうど詐欺師が責任をとるつもりがないからこそ平気でもっともらしいことを言うのと同じだと考えるのがもっとも合理的だという主張を紹介しました。

そこで、私としての見解ですが、基本的にB氏と同じですが、少々スタンスが違います。

まず、統一教会の悲惨な状況については、弟子たち(幹部)が文氏の教えを正しく理解せず、自分に都合よく誤解・曲解しているためだということについては、私も同意します。

例えば、統一教会で信者を服従させるための理論として批判されるアベル・カインの関係について、『原理講論』なり文氏の教えなりを見ると、実際の教会で押しつけられていること、あるいは実践されている内容とはまるで反対のことが説かれています。

統一教会の本来の教えで説かれるアベル・カインの関係は、カイン(部下)がアベル(上司)に絶対服従するというものではなく、カインがアベルに絶対服従するようになるまで、アベルがカインに尽くし愛するというものです。アベルがカインに対して徹底的に愛し尽くし、カインがそういうアベルの姿勢に感動した結果として、カインがアベルに絶対的に服従するようになる、というのが本来の趣旨です。

ところが、そのアベルがカインに愛し尽くすという肝心の過程が省かれ、カインはアベルに絶対的に服従しなければならないとしたのが根本的な間違いです。かくして、ある人曰く「ヤクザの論理」になってしまったのが統一教会の現状だというわけです。


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実際、統一教会の人たちは、まったく統一教会の教えを理解していません。そもそも、どれほど関心を持っているかもわかりません。ただ、とにかく文氏を信じ、祝福を受け、何とか死ぬまでしがみついていれば天国に行けるはずだ、ぐらいの人がほとんどでしょう。

そういう意味では、文氏の教えを正しく実践していれば、今のようにはなっていないという考え方はまったく正しいと思います。

そこで、A氏などは、文氏の教えを正しく実践することが大切だと考え、そのためには教会組織の中にいては実践できないとします。それは、文氏の説教や指導の中に根拠があり、ある意味で教会を解体するような指示さえあるにもかかわらず(それが統一教会の名称変更に関わっている)、それを自分の権限や利権を守るために実行しなかった教会幹部を批判するわけです。

それに対して、私は、そう信じる人はそうすればいいと考えます。なぜなら、それらの内容についてはもっともだと思うし、社会にも迷惑を掛けず、本人の成長にも役立つであろうと考えるからです(その場では、そもそも二人を紹介したのは私だったものですから、あんまり場を騒がしてもいけないので、この部分は言っていません)。

と同時に、統一教会は、普通の人には実践不可能とも考えていますから、本気で取り組んでみれば、統一原理と文氏の間違いにも気づきやすくなるだろうという考えもあります。

教会組織を批判し、統一教会と距離を置きながら、それでも文氏とその教えを信じているという人たちの大半は、「教えは正しい。しかし、自分はそれを実践することの出来ない弱い人間だ」と規定することにより、つまり教えと実生活を分離することによって信仰を維持しています。

しかし、実践せずして教えが正しいかどうかを確認することができるでしょうか?

また、たとえ本当に教えが正しかったとしても、自分に実践できない教えであれば、それを信じることに意味があるでしょうか?

例えば、信者の半分が実践できて、残りの半分には実践できないというのであれば、自分が弱いから実践できないと言ってもいいでしょう。あるいは、信者の一割でも一分でも実践できているというのであれば、それでも努力すれば実践できる可能性があるといえるでしょう。

しかし、信者が誰一人として実践できない教えって、どうでしょうか。

文鮮明氏自身が実践しているかどうかはさておき(私は否定的ですが)、信者の誰一人として実践できていないことは間違いありません(これは全教会員が認めるところでしょう)。ということは、普通の人間には実践不可能な教えだと判断するのが妥当でしょう。

実際、この教えは実践不可能な教えなのです。その理由は最後に書きます。

さて、実践不可能だと私は断定するわけですが、しかし、実践できる人が出てこないとも限りませんし、統一教会においては文氏は実践していると主張しています。その点では、どちらに軍配を上げるかは、統一教会を信じるか信じないかという信仰の問題によらざるを得ません。

そこで、誰もが納得しうる判断基準として提示するのが、やはり「責任」という問題になるわけです(ここまでは、件の議論では話しておらず、実際には以下の内容のみ話しました)。

私は宗教において、必ずしも教祖や教義が正しくなければならないとは考えません。間違いがあったとしても、誠実に実践し、結果に責任を持つならば、自ずから修正されていくと考えるからです。

それで、統一教会の場合を考えると、誠実に実践できているかという問題は途上であるという言い訳が可能ですが、すでに生じている自己破産者や自殺者という結果に対する責任をどう考えるかということについては言い訳ができません。

これについて、文氏がそれを指示したか、していないか、そういう実態を知っているかいないかは別にして、最高責任者である以上、最終的に責任をとる立場であることは間違いありません。しかし、この問題について文氏はまったく責任をとっていません。

文氏が責任をとらなくても、また、文氏に責任がないと主張するのであれば、それに代わって責任をとる人が必要です。しかし、誰一人として責任をとろうとしません。

例えば文氏の子ども達が、自分たちの財産をすべて投げ出して、そういう悲惨な末端信者を助けようとしたならば、たとえ全員が助からなかったとしても、本物であると私は認めます。

また、文氏を救世主・真の父母と信じる人たちが、自己破産したり自殺したりしている現役信者・元信者の苦しみに責任を感じ、たとえ現実には何もできなくても、心に痛みを感じ、せめて一人でも二人でも助けたいという気持ちを持ち続けているならば、その人に対しては本物と認めます。

しかし、文氏の子ども達は、自分の生活を犠牲にして、その生活を成り立たせてきた、あるいは現に成り立たせている元信者・現信者に対して何かしようとはしていません。当然の如く君臨しているだけです。

あるいは、もし自己破産したり自殺したりしている信者の存在に心を痛め、何とかしたいと真摯に考えれば、それでも文鮮明氏を信じ続けることができるとは考えられません。そういう人たちは単に教会の悪い幹部たちの犠牲になったのだとして、他人事として感じているから、本当の意味での心の痛みを逃れることができているのだと思います。

文氏を信じるのであれば、文氏がとろうとしない責任をとるべきだ、むしろ、本当に信じているのであれば、文氏を庇うために自ら積極的に飛び込むはずじゃないだろうかと考えるわけです。

つまり、文氏もしくは後継者、もしくは信奉者が、現に起こっている悲劇の責任をとらない限り、本物とは認められないということです(本当は、世界の人類を救済したときに初めて本物といえるのですが、それはまず不可能でしょうから)。

もし、キッチリと悲劇の責任をとる、もしくはその責任に向き合うことができないのであれば、いくら文氏が正しいと言っても説得力がないでしょうという立場です。

まあ、本当は悲劇が起こった時点で…、というより世界が救われていない時点で…、というより文家自体が悲惨だという時点で説得力などまったくないのですが。

で、結論はどうなったかというと、出ませんでした。それぞれ筋金入りですからねえ。

最後に、なぜ統一教会の教えは実践不可能かという理由を書いておきましょう。

それは、統一教会の教えは、完全無欠な人間が存在しうることを前提としているからです。しかし、この世に完全無欠な人間など存在しません。統一教会では、それは堕落の結果だと説くわけですが、堕落など無関係に、この世に完全無欠な存在など存在し得ないのです。

日本人は、現世に完全無欠なものが存在しないことを前提として完全を目指します。未完成であること(完全ではないこと)は当たり前の状態であって、向上しようとしているかどうかが問題とされます。そして、どんな高い目標でもクリアしようとするわけです。

そんな日本人に、完全無欠な人間であることを求める教えなどを与えたら、どういうことになるでしょうか。

統一教会というのは、理念と現実が乖離していても、現実を否定して理念の世界に生きることができる韓国人のための宗教であって、日本人向けの宗教ではありません(だから、韓国の統一教会と日本の統一教会はまったく違うといわれます)。

つまり、韓国の宗教である統一教会は、もともと教え通りの実践など想定していませんから、古参幹部(直弟子たち)が文氏の教え通りの実践などするはずがないことは当然のことですし、それを問題視してもしかたがありません。

そんな無茶な教えでありながら、日本人の優秀性のために、それなりに実現できてしまったというのが日本統一教会の悲劇であるといえるでしょう。

 莫令傷心神のサイトから転載さしていただきました。有難うございます。