タイトルの通り、そんなことを思ったのでした。
今日は家族でカラオケに行ったのですが、ウキウキしすぎて寝付けず、寝不足の頭でカラオケをするという疲れたことをやりました。
そのおかげか、今日は全然昔の嫌な思い出を思い出さず。なんかそっちにリソースを割けなかった感じです。
でも、帰りにまさかの車越しですが高校生のころに苦い思いをした懐かしの人にすれ違ったのです。
「ああ、あの人だ。うわあ、気まずい、気まずい」という苦い重い感覚が胸にもたげるのを感じました。
私は、そう感じているということに気づきながら、その感覚について「これはネガディブな思いだから消そう」とか、「昔の記憶をポジティブに捉えよう」とか、操作を試みることはなく、そのままにしていました。そして、苦い重い感覚はいつの間にか忘れていて、今ブログを書く際に、そういえばあったなと思い出しました。
湧きあがった感覚に操作をしなかったのは、疲れていたからだと思います。なにせ4時間睡眠しかしていない。しかも一昨日は内定式だったからそのときも緊張して一睡もできなかったし、その疲れもまだ残っている。
だから、「あ、あの人だ。嫌だなあ」に、「こんな感覚はダメ、消そう」とか、「前向きに変換変換!」とか、「あーダメダメだから私はダメ人間なんだよ過去が証明してるんだよー」といつものようにドツボにハマりだしたりせずに、「ああ、嫌だなあん…」という感覚だけが静かにただもやっと居座り、ぽけーッとその感覚の中にいて、自然と意識が別のものに移るまで至ったのかなと思います。
疲れすぎて、脳が余計なコメントをつけることができなかったんですね、体力的に。
それで、今も思い出せばモヤッとするのですが、なんだろう、モヤッとするだけで、それ以上の判断をその記憶に加える気持ちにはならないのです。
重く苦いこの気持ちを、悪いものと捉える気持ちもなんか湧きません。むしろ、ちゃんとこの気持ちに浸って、「ああ自分は今こんな気持ちだな」と理解できることに、なんか心地よさを感じます。
嫌な気持ちになっているはずなのに、それを観察すると、安らぎが湧いてくるのです。
自分の人生に「NO」を突き付けていないからかな、と思いました。
自分の湧きあがる感覚をそのまま静かに受け入れてあげるというのは、「こういう気持ちになっても、あなたの人生には価値があるし、私はあなたの人生を生きるのが好きだよ」と、自分に伝えてあげる行為なんじゃないかと思います。
だから、心が安らぐのかなって。
でも、これが今できるようになるまでに、たくさんの葛藤がありましたね。挫折がいっぱい…。でも、実は一歩一歩着実に歩みを進めていたんだなと分かります。失敗したからといって、得た経験値が0になるわけじゃないですからね。1、1、1…と重なって、100になったときに、急にできるようになったように見えるのだと思います。
いろいろ、今日はそんなことを感じた日なのでした。カラオケ楽しかったです、またいっぱい、いろんな曲を歌いたいなあ。