日本橋の上空にかかる首都高速を地下化しようという再生プロジェクトが始動し、世論の支持を集めていると聞く。
かつて、オリンピックを控えた昭和30年代、高度成長時代の東京。高速道路建設用地確保のための苦肉の策…というよりウルトラCとして、当時都心部に残されていた水路網のうえに建設されたのが、首都高であり、そのとばっちりで、以来日陰暮らしに甘んじなければならなくなったのが、今のお江戸日本橋なのだった。
その日本橋を東海道五十三次に描かれた日本橋に。「日本橋に青空を取り戻そう!」
こういう爽やかなプロジェクトに異論を唱える者などどこにもいるまい…と思ってたら、実は大間違いなのであって、ここにいるんだな、変なオヤジが。
…もちろん何百万円かかるかわからない予算をけちって言ってるんじゃない。
別に今のままで困らないじゃない…とか前向きでない、ただの消極論をふりかざすつもりもない。
この点、著名な都市計画学者で、私も敬服してやまない越沢明先生が、かつてご著書の中で、『日本橋の光景には本質的な変化はない。水運が陸運に進化した姿が今の日本橋だ』というようなお話をされてたのを思い出す。こうして日本橋再生プロジェクトが実際動き出したいま、改めて先生の慧眼に敬服する。
が、もしかしたら私のはタダのノスタルジー、あるいは、センチメンタリズムかもしれない。
この日本橋の光景こそ、なつかしき高度成長期の象徴、いや戦後日本の思い出ではないだろうか…という。
一日も早く欧米先進国に肩を並べよう、その証しとしてオリンピックを立派に成功させよう、戦災から復興した平和日本の首都東京の名に恥じない都市を造ろう。
…そのためにみんなが頑張ったあのころの日本。もしかしたら戦時中以上に心合わせていたかもしれないわれわれ、さらに私たちの父母の世代。
…そうなんですね、あのころの日本には、景観保護とか町並み保存とか、高所から至言を述べる人も、そういう住民運動もあり得なかった。みな、がむしゃらに働いていた。外国人労働者に頼ることもなく!
僕の死んだ父親なんかも一介のサラリーマンで、毎年大晦日の夜遅くまで働いてた。子供心に、紅白歌合戦を見られない父親がかわいそうだった。そんな家庭で、僕は母親にいつもガミガミ怒られていた。でも母はときどき相撲やキャッチボールしてくれたな、勉強は教えられなかったけど。まさに昭和だった。
…平成が終わろうとしてる今、そんな昭和が無性に懐かしい。
…脱線した。まあ、今は否定されるのかもしれないけれど、文化や歴史に目を向ける余裕もないまま、一心不乱だった、あのころの日本人。そう、決して反省とか『負の遺産』とかそういう後ろ向きの物じゃなく、エコノミック・アニマルと言われた、あの日本人の涙ぐましい頑張りの記念碑として、私は、日本橋の上の高速道路は残したい、いや、残すべきだ…と思っているのである。
いや、むしろ世界遺産にしてほしいほどですよ、今のままの日本橋を!
…しかしまぁ、こんな圧倒的な少数意見でもこうして世間に発信できる。ネット社会、SNS社会はありがたいよな。
そして、災害や事件は多かったけど、平成はホントに平和だったよなあ!
…結局なにが言いたいのかわからない。こういう長いだけで無責任な有害ブログは即刻閉鎖されるべきですな。わかってるさ、みーチャン!