忘れぬうちに金バッヂを外しておいた方がいいな・・・。

そう思った私は、左襟に付けていた金バッヂを、外した。

お葬式に金バッヂを付けていくのはよくないと思ったからである。

小さなバッヂの表側を右手で支えながら、裏側についているネジを左手の親指と人差し指で回す。落とさないようにと、細心の注意をはらいながら。

しかし、落としてしまった。

都営地下鉄大江戸線の車内はラッシュ・アワーというのではないが、そこそこ混んでいた。

バッヂは、車内のどこかに転がり落ちてしまったのだ。

弁護士バッヂは、日本弁護士連合会の徽章であり、会員証を兼ねているため、紛失すると大きな問題になる。再発行を受けるには大変な手間がかかるし、なくしたバッヂがだれかに悪用されるともっと困ったことになる。

・・・しかし、こんなとき、あせって探し回ってもダメだ。

とにかくある程度車内が空くのを待つしかない。それまでの間、車外にバッヂが蹴飛ばされたりしないのを祈りつつ。

・・・新宿を過ぎたら、劇的に車内は空いた。半分以上のお客が降りたようだった。

ようやく、改めて自分の足元からじっくり探してみたが、ない。

このとき気付いたのだが、電車の床には物がほとんど落ちていない。実にきれいなものである。

だから落ちていればわかるはずなのだが、わからない。やはり途中駅、なにかのはずみで車外に転がり出てしまったのだろうか。困った。そして焦る。

お葬式の時間が刻々と近づいている。

しかし、そのとき、シートの下の、まさにキワのキワのところに、私のバッヂが落ちているのに気付いた。やっぱりあった! 胸をなでおろす。

ところが、それを拾おうとした次の瞬間、いったいぜんたいどういう力がそのバッヂに働いたというのか、バッヂがまるで命でも宿っているかのようにひとりで勝手に動き出し、斜め向かいのシートの下の奥の方に転がり込んでしまった。そこのシートには、若い女性が座っており、まるで私のバッヂを守るかのようにミニスカートから電車の床にすらりと脚を伸ばしていた。ちなみに、その女性の赤いハイヒールは、今も私の脳裏に焼きついて離れない。

・・・まずいな。

しかし、この女性が次の駅、あるいは次の次の駅で下車してくれる保証はない。

『私は弁護士なのですが、これから行くお葬式に会員徽章である金バッヂを付けていくわけにはいくまいと思って、さっき車内でバッヂを外そうとしたのですが、そのときついバッヂを落としてしまいまして、それがそこのところに落ちていたのですが、さっき電車が動いたはずみにそれがこちらの方に転がり込んで、いま貴女の脚の裏に転がっていますので、ちょっとミニスカートの下を覗き見るような格好になるかもしれずもうしわけないのですが、そのバッヂを拾わせてください。私は決して怪しい物ではありません。』などと一から説明してる余裕はない。

私は、その女性に「ちょっとすみません。落し物を。」とだけ言い、変態と思われたかもしれないが、返事など待たず、脚の裏側を覗き込むようにして、そのバッヂを拾おうとした。

・・・そしたら、まるで漫画みたいなのだが、またしてもバッヂが勝手にそこからコロコロと動いて、連結器の方に転がっていくではないか。かんべんしてくれ!

私が非常にバツの悪い思いをしたのはいうまでもない。

しかし、その光景を見ていて状況を察してくれたのだろう、シルバーシートに座っていたひとりの老女が、自分の方に転がってくるバッヂを拾ってくれようとして・・・。

しかししかし、あろうことか、前につんのめるように、彼女は転んでしまったのであった!

「大丈夫ですか!」

うろたえた私は、それでも、こういうときに先にバッヂを拾ってはいけないと冷静に判断し、まず老女に声をかけ、助け起こそうとした。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ。」

彼女は二度くりかえした。

本当にだいじょうぶなのだろうか。ただうかつに女性の体に触れてはならない。そういうマナーは、私もまだ持ち合わせていた。そして、老女は、私の力を借りることなく、ひとりで立ち上がり、どことなく恥ずかしそうに、ふたたびシルバーシートの客となった。とてもやさしそうな女性だった。

ほっとした私はようやく弁護士バッヂを拾い上げた。バッヂは今度は動かなかった。

最後にもういちど老女に無事を確認し、さらにお礼を言い、私は次の駅で降りて反対方向の地下鉄に乗り換えた。

だから私はバッヂをなくさずにすんだ。しかし、お葬式には10 分くらい遅刻してしまった。