これまでもこのブログで記したことがあったが、現代の少子化社会・日本でいちばん偉いのは、天皇陛下でも総理大臣でも、ましてや最高裁判所長官でもなく、子供。早い話がそこらへんのガキなのである。
そして、その次にえらいのが、子育て世代。
だから、彼ら、彼女らが通る時は、みんな道を開けるし、悠然通り過ぎる彼らを誰もがにこやかに見送りもするのである。
そこへ来て、この「子供手当」だ。
この世紀の人気取り施策は、一説によると、子供は親でなく社会全体で育てるべきもの、社会の宝なのだ、という基本理念に立脚するもので、若い世代が子供を産みたい、産もう…という動機・契機となる社会環境づくりの一環なのだという。
もっとも、中には、それでもまた足りず、保育園を無料にするべきだ、もっと働く母親が子供を育てやすくなるような就業支援が必要だ、教育費ももっと社会全体が負担するべきだ…等々の議論がある。
そういった物言いの根底には、現代日本が少子化社会なのは、社会経済システムに子供をつくろうとさせるインセンティブがないからだ、子供を育てにくい社会だから夫婦が子供を作ろうとしないのだ、子供が増えないのだ…という共通認識があるようなのだ。
しかし、私はこういった考え方に完全に反対である。
子供が多いか少ないかは社会経済の問題なんかじゃないと思う。…これが私の今回の暴論の趣旨であり、こういうマイナーなブログなればこそ発表できる見解なのである。
なぜ、そう思うのか。
だって、見てくださいよ。現代日本で結婚する夫婦の2組に1組は、出来ちゃった婚なのですよ。
果たして子供ってのは、社会経済に照らした計算で、作るものなんだろうか。
それに貧しい国ほど、貧しい時代こそ、子だくさんじゃないですか。
たとえば、かつての日本は、少なくとも今よりも、子育てに対する社会の支援は貧しかったと思う。でも、今よりはるかに子だくさんの社会であった。
途上国の難民キャンプで、たくさんの幼な子が飢餓に苦しんでいる現状はどう説明するのか。
素朴な気持ちだが、子供は、ときに、作るものである以上に、できちゃうものであり、また、作るとしてもそれは、純粋な子供がほしい、ふたりの愛の証、愛情の結晶がほしい…そういう気持ちで、作られ育てられるべきもの。そうであってほしい、いや、それ以外のなにものでもないはずだ。…これが私の思いであり「子宝」論だ。
…いやはや、完璧に少数説、否、異端説ですね。わかっております。とくに、同じような発展段階にある諸国の中で、子育て支援にどのような差があるか、そして、それが出生率の変化にどう反映しているか、そこらへんの分析を欠いていると言われればそれまで。
ただ、いついくつになっても、社会の子でなく、両親の子でありたいと思っている。あなたももしかしたらそうじゃないだろうか。
そして少なくとも、われわれのお母さん、おばあちゃんは、今よりずっとずっともっともっと苦労してたに違いないのだ。その視点だけは忘れたくない。