兄がお星さまになった日(。•_ก) | 1型糖尿病とともに完治できる日まで!

1型糖尿病とともに完治できる日まで!

1981年12月に1型糖尿病を発症しました。
なので1型歴だけは長いです*\0/*

インスリンペン
リブレ
miaomiao
xDrip
スマートウォッチを使って今は快適な生活を送れるようになりました。
これもブログをしていたお陰です♥

完治する日まで一緒にがんばりましょうね。

皆様、こんにちは!

今日は少し悲しいお知らせです。

父でもなく母でもなく兄が突然不慮の事故で亡くなり、お星さまになってしまいました🥺キラキラキラキラキラキラ





私はあの日、前日から2泊3日の予定で30分あれば自宅に戻れるようなところに宿泊していました🏨


どうせならもっと遠くに行きたかったけれど、なにか父にあってはいけないのですぐに飛んでいける距離に。

どうしてもこのままでは自分の精神状態が保てなくなると感じたからです😐


当日には父をお風呂に入れ、全ての洗濯物を干し、父のお薬をお薬ケースに詰め、リハビリパンツも目立つところに置き、後ろ髪引かれる思いでしたが、キャリーバッグを引いて心のリフレッシュのためにほんの少しの間だけ家を空けることにしました。


父には「しばらく家出るけど、母がなにか言ってきても喧嘩しないようにね」と言うと、

「どこに行くんや👴」一瞬不安そうな顔をしましたが、すぐに帰ってくるからと。

母にも簡単に「今晩明日は帰ってこないから」と。

わからないようにそっと出ていきました。


あれだけ「お前なんか出ていけ!!!死んでしまえ!!!👹👹👹」と言っていたけど、それでも母は私のことを心配してくれていたのか?夜になっても帰らない私に何度も電話を入れてきました。


他の用事だったらいけないので3度目は必ず出ることにしていました。





その日、午後10時過ぎに母からの電話がかかってきました。これまでに外泊することなどなかったので、外に何度も出て今か今かと帰りを待っていてくれたのだろうか?

🧓「今どこにいるの?今から帰ってくるんでしょ?」
👩「日曜日の夕方まで帰らないよ。ホテルに泊まってるから大丈夫」
🧓「あんた、誰といるの?ひとりと違うやろ」
👩「こんなオババと誰が泊まってくれるの、ひとりに決まってるやん。出ていけと言われたから出ていっただけ」
🧓「あんた、何が気に入らんのや。こんなに良くしてやっているのに。勝手にせえ、このボケ😡😡😡」

ガチャン💢💢💢


こんなのは毎日のことだからもう慣れてはいるはずなんだけど、このとき少しだけ心が疲れていました😖


母からの電話の後、血糖値が急上昇🩸➚

午後11時、やはり高いので少しだけフィアスプ追加打ち。でも運悪く洋服に針の先があたったのか?少し曲がっていたようでインスリンが溢れていました。

午前0時、ほとんど下がっていないのでやはりインスリンは体には入っていなかったのかともう一度低血糖にならない程度の追加打ちして取り敢えず横になりました。

低血糖アラームに気がついたのが午前3時頃でした。血糖値74。枕元においていたお菓子を食べそのまままた爆睡してしまっていました🍪🍬🍩

2度目の低血糖アラーム、今度は50以下爆音設定していたのに気がついたのは、早朝4時過ぎ。

爆音をすぐに消さなきゃだったけど、すぐに血糖値が上がるわけでもないので無意識のうちにいつものようにスマホの電源を切ってしまいブドウ糖ラムネをいくらか口に入れそのまままた爆睡😪😪😪

5時過ぎに目が覚め、枕元に置いていたお菓子類が散乱していたことで思い出し夜中の血糖値を確認。

生きていてよかった😢





朝、やはりひとりで食事するのも寂しい。
ちゃんと両親は食べてるかなぁ?
父のリハビリパンツをちゃんと母は取り替えてくれてるかなぁ?
喧嘩してないかなぁ?
家出たものの心配ばかりだ。

じっとしていても体に悪いので、朝ごはんを食べて、お昼ご飯も早めに食べ電車に乗って40分ほど離れたイオンモールをブラブラ🚶🚶🚶
午後2時過ぎになって母から電話が4回かかっていたのに気が付き、どうせまた「今、何処にいるの?」だと思いましたが取り敢えず母の携帯にかけてみると「今すぐに帰ってきて!!!!!😫😫😫 お兄ちゃんが機械の下敷きになって病院に運ばれたと〇〇から電話があった」と。
自宅までは30分で戻れなくなってしまったので、とにかく転けそうになりながら大急ぎでホテルに戻り、荷物をまとめて電車に乗るとすぐに弟から電話があり、詳しく聞くと「機械の移動中に何かが起こり何トンもの機械が倒れてきて兄は心肺停止状態で病院へ運ばれた」と。それから先は私に今精神状態は大丈夫かと弟から何度も聞かれたけど、いま電車の中だと話していたので、取り敢えず自宅に着いたらまた携帯に電話ちょうだいと。

家に到着し、誰も1階にはいなくて父も母も2階にいました。
父が「僕は行かんでいいのか?」と言う声だけが聞こえてきて、取り敢えずどうして2階に上がれたのか?足腰の弱い父を1階におろしました。
兄嫁からの電話で母がどこまで聞いていたのかはっきりせず、父もどこまで聞いてしまったのか?わからないままでした。
それから先は頭から飛んでしまっていたのかも。




自分の部屋に入り、すぐに弟の携帯に電話をするとまた落ち着いて聞けるか同じことを何度も聞かれました☹️
何となく私も心の準備はできていたのかもしれません。
兄は心肺停止状態で病院へ運ばれそのまま亡くなったと聞き、何故かあのときは涙も一滴も出ませんでした。
両親にどう伝えればよいのか?そっちのほうで頭の中が混乱してしまいました。
その日も仕事で弟はすぐ近くまで来ていたので帰りに家に寄ってふたりの状況を見に来てくれました。
父には兄の死を伝えないことにしました。
あまりにも酷すぎる😖
弟は、自分ひとりであちらに向かうか、母も連れて行くかの2択を考えていたようでした。
母にはギリギリ伝えられそうだったので2人で話してみました。
母も大きな声をあげて泣くわけでもなく、静かに「行きたいけど、私みたいな年寄が行くと皆の足手まといになるから家に居る」と。
ちょうど10日ほど前の雨が降ったときに地下を歩いてて滑って転んで頭とお尻を打ってしまいました。靴底がツルツルになった靴を捨てないで履き続けていたために、ついに滑って転んでしまいました😫
腰に痛みも出ていたようでした(何度整形外科受診を勧めても歩けるからと拒否)。
弟は両親のこともあったし、私の身体のことも気にかけてくれていたようで、「長旅になるのでお姉ちゃんは両親のこと頼む」と。
でも、そんなことしたら私は一生後悔するし、もう兄の顔を二度と見ることもできない。
ちょうど母が行かないのから一泊や二泊ぐらい今の状態ならまだふたりで留守番は出来るはず。
冷蔵庫の中や洗濯物が溜まっていても死にはしないと。




向こうで兄嫁が不安がっているようなので、まだなんの日程も決まってはいなかったのですが、弟が先に弟嫁と一緒に行っくれることになりました。
事故死なので検死とかもあったので、兄が自宅に戻ってきたのが3日後の午後でした。
その次の日にお通夜、その翌日が告別式と決まり、私はお通夜の当日の朝に新幹線に飛び乗りひとりで兄の待つセレモニーホールへと向かいました。
喪服を着て黒いコートを着て用意をしていたら、母が悲しい顔をして「お兄ちゃん死んだん?」と聞いてきました。
母もわかってるようでわかっていなかったみたいでした。混乱していたのでしょうね🥺

兄が今の土地に転勤になったときに家を建て、両親と私とで新幹線に乗って遊びにいったのがちょうど20年ほど前のことになります。
また遊びに行きたいとは思っていたけれど、こんなことで行かなくてはならなくなるなんてこんなに悲しいことはありません。
兄弟3人の中で一番早くに死ぬとしたらこの私だとずっと思っていたので、予定が狂ってしまいました😖
まだ、夢の中にいるようです。




あちらの駅に着くと弟と弟嫁が優しく手を降ってレンタカーで迎えに来てくれていました。
少しだけホテルで休んで、兄と兄家族が待つセレモニーホールへ。
やはり夢ではなく実際に起きていることでした。入り口に兄の名が大きく書かれていました😖
こんなの見たくなかった。
中に入ると、久し振りに会うやつれた兄嫁と、すっかり成長した長女、次女、長男の姪っ子甥っ子達が待っていてくれました。
兄家族と会うのはコロナが流行る数年前にも一度こちらに遊びに来てくれていたので、5〜6年前だったか?

兄に会わせてくれました。
👩「お兄ちゃん、今来たよ。遅くなってごめんね。お父さんにはどうしても言えなかったよ。お母さんにはギリギリ言えたけど、お母さんも少し前に転んで腰打って行きたいけどこんなんで行ったらみんなに迷惑かけるって。ごめんね」。
久しぶりに会えたのに返事も返ってこなくて冷たくなった兄との対面でした。
私はヨレヨレになってしまい、ずっと弟と弟嫁に支えられながらのお通夜でした。
社葬で立派な大きな祭壇で会社側が全て用意してくださったようでした。
たくさんの方が来てくださいました。
中には大きな声を上げて泣いてくださってる男性も数名いらっしゃりました。
もしかしてあのとき兄と一緒に機械の移動をしていた3人のうちのおひとりなのかもと思い見てしまいました。
一緒に作業されていた方もきっと辛いですよね。
亡くなったのが兄でなくても耐えられなかったかも。



兄は高専時代に、山岳部に在籍しており、ちょっとした判断ミスが原因で亡くなってしまった多くの方々を見てきたはず。
子供の頃から真面目で、何事も慎重派。
どんなときでも慌てずに落ち着いて行動できる人でした。
何があったのかは結局はわからず、事件性はないとのこと。

弟は僕ならもっと追求していくと思うけどお兄ちゃんは争いごとが嫌いな人だったからなと悔しそうでした。

次の日の告別式も、たくさんの方々が来てくださり、遠くは1,450km離れたところからも来てくださっていたようでした。
最後のお別れはたくさん話したかったけどやはり胸がいっぱいになり「ありがとう」としか言えませんでした。
その後荼毘に付され、対面してビックリ💀💀💀骨が混ぜこぜにされたのかと思うぐらいに骨がバラバラに小さくなっていました。
頭蓋骨も5cm程度のものが2枚だけ。
人の形には全然残っていなかったし、長い骨も一本もありませんでした。
何トンもの重さのものに長時間挟まれていたのですから、あちこち骨折もしていたのでしょう。
でも喉仏だけはちゃんと綺麗に残っていました。
なぜだか最後は苦しかったはずなのに微笑んでいた兄☹️
周りに心配させたくなかったのかなぁ?
最後まで兄らしかった。




こちらでの兄の生活はあまり良くわからなかったのですが、10年前ぐらいから隣の県の職場に転勤になり、月に一度だけ自宅に帰っていたようでした。
その間に次女は短大を卒業し、この子は生まれたときから心臓が悪く、体も小柄なのですが親元離れて一人住まいで自宅から離れた地で頑張っています。
長女は、あと一年学校があります。この子も訳ありなのであと一年残っています。
末っ子の長男は都道府県は違うけれど兄と同じ高専に通わせ、自宅から2時間かかるそうですが、この春やっと卒業でした。
卒業式は終わったのかと思っていたらこれからのようでした。
兄のときも、卒業式が3月の25日ぐらいだったか、式が終わるとその足で東京に行ってしまったのを思い出します。
甥っ子の長男も就職先も決まり4月からは社会人となり、自宅を離れる予定です。
3人の子供達もなんとか大きくなり、これからだったのにやはり悔しい気持ちでいっぱいになりますね。

父が生きている間にもう一度ぐらい会いに来てくれるかなぁ?と思ってる間にコロナが流行り、兄との想い出はあのときで終わってしまいました。

照れ屋な兄だったので、これまでにプレゼントをもらったのは2度だけでした。
そのうちのひとつは、私が1型になったときに薄いピンクのスエットスーツでした。
もうひとつはこのぬいぐるみです。
もう41年ほど前のものですが、大切にビニール被せて部屋に飾っていました。
これまでずっと残していて良かった。


あれから私の中で時間は止まってしまいました。
でも時間は動いています。


いつの間にかこちらでも今河津桜が満開です🌸🌸🌸












アーモンドのお花も咲き始めました。








私があのとき家を出なかったら、兄はあんなことにはならなかったのかもと思う自分がいます。
神様が頑張っていた兄に矛先を向けてしまったのかもと。
お兄ちゃん、本当にごめんなさい。


お兄ちゃん、身軽になったからまたこちらの方にも遊びにきてくださいね。

そして今度生まれ変わってくるときも、また私のお兄ちゃんでいてね。
今度はたくさん色んな話をしましょうね。
そして両親のことは心配しないでね。

お兄ちゃん、今までありがとう。

安らかにお眠りください💐