アドラー心理学が目指す究極のゴールは「共同体感覚」です。
これは、自分のことばかりを考える「自己執着(セルフ・インタレスト)」から、仲間のために何ができるかを考える「他者貢献(ソーシャル・インタレスト)」へと、心の重心を移していくプロセスでもあります。
サッカーというスポーツは、この心のシフトが如実にプレーの質、そして結果に現れる鏡のような場所です。
「俺が俺が」の限界:自分のスタッツばかりを気にする落とし穴
多くの選手が陥りやすい罠があります。それは、自分の得点数やアシスト数、あるいは華麗なドリブルの成功数といった「目に見える数字(スタッツ)」ばかりに意識を向けてしまうことです。
もちろん、フォワードがゴールを狙うのは当然の役割ですが、その動機が「俺が目立ちたい」「俺の評価を上げたい」という「自己執着」に偏りすぎると、チームは途端に機能不全に陥ります。
「俺が俺が」という意識が強すぎる選手は、本来パスを出すべき局面で強引にシュートを打ち、仲間がより良いポジションにいても無視してしまいます。
これでは、相手ディフェンスにとっては守りやすいことこの上ありません。自分のスタッツを優先する選手は、無意識のうちに仲間を「自分を輝かせるための道具」と見なしており、そこには信頼も協力も存在しないからです。
結果として、個人は目立ってもチームは勝てない。そして最後には、その選手自身の評価も下がっていくという皮肉な結果を招きます。
「自分は何を与えられるか」を問う:ボールに触れない時間の貢献
一方で、一流の選手ほど「自分は何を与えられるか」という問いを常にピッチ上で自分に投げかけています。
アドラー的な視点で見れば、貢献とは必ずしも「直接的な成果」である必要はありません。
例えば、90分間の試合の中で、ある選手が一度もボールに触れないスプリントを繰り返したとしましょう。スタッツには何も残りません。
しかし、彼が全速力でディフェンスラインの裏へ走り抜けたことで、相手ディフェンダーの一人が彼についていかざるを得なくなり、中央に広大なスペースが生まれたとします。
そこへ別の味方が走り込み、ゴールが生まれたなら、その得点の真の功労者は「ボールに触れなかった選手」です。
「自分が目立たなくてもいい。仲間のためにスペースを作ろう」という献身。これは、自分を捨ててチームという共同体に貢献しようとする、純粋な他者貢献の姿です。
自分の利益を脇に置き、仲間の利益を最大化しようとする意思が、チームに爆発的なエネルギーをもたらします。
無形の貢献の可視化:記録に残らない動きこそが組織の生命線
サッカーには、シュート数や走行距離といったデータには現れにくい「無形の貢献」が無数に存在します。
相手のパスコースを一本切るために、わずか数メートルだけポジションを修正する動き。 味方がミスをしてボールを奪われた瞬間、一番に守備に切り替えて相手のスピードを遅らせる動き。 あるいは、苦しい状況で仲間にポジティブな声をかけ、チームの士気を維持する姿勢。
これらは、派手なスーパープレーではありません。しかし、こうした「記録に残らない貢献」の積み重ねこそが、アドラー的な共同体感覚の象徴です。
一人ひとりが「自分に何ができるか」を考え、互いの弱点を補い合い、強みを引き出し合う。そのようなチームでは、ボールを持っていない10人が、持っている一人のために働き、持っている一人は残りの10人の信頼に応えるために最善の選択をします。
「自己執着」から脱却し、チームという共同体の一部として自分の役割を全うすること。
そのとき、選手は「孤独なスター」ではなく、「強固な絆で結ばれた組織の一員」となります。自分の居場所は、誰かに与えられるものではなく、他者への貢献を通じて自ら創り出していくものなのです。
このシフトが起きたとき、チームは単なる個人の集まりを超え、一人の人間のように連動し始めます。勝利という果実も、個人の成長という報酬も、すべてはこの「他者貢献」という土台の上に実るものなのです。
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