ヨシフのブログ

ヨシフのブログ

なんのポリシーもなくブログはじめたら
本、映画、TV、アート、音楽について
思い出すこととか書いてました。

福井コロナワールドで見ました。

 

主人公が宇宙船で目覚めて記憶がないのは

人が前世の記憶を持たず

日常のなか途切れ途切れで

使命を再確認していくことを連想させる。

 

地球外生命体とのやりとりで

自分以外の存在を

自分同様に大事に思い行動できること

これが愛なんだよ

と一人合点する。

 

他者を愛する心境に至る奇跡と

それまで孤独と真摯に向かい合うこと

についても考えさせる。

さまざまなフィクションを見てきて

いまさら気が付くことがある。

 

すぐれた作品なら

採用されたどのシーンも

全体を予感させる重要なピースになっていて

ただそのシーンだけかっこいいとか

要らなかったりするとか…

 

 

なかでも今回特に取り上げたいのは

虚構と現実との乖離について

現実の恋は、”量産型、あるいはなんちゃって愛”で

親子、きょうだいの間の思いも現実には

愛のイミテーションになりやすいということ。

 

おそらく本来の愛は

血がつながっていてもいなくても

利己的な欲や損得勘定なしに

自分以外の存在を

自分同様に大事に思えることだろう。

逆に血がつながっていても

そこに愛があるとは限らないし

自分を大事に思えない愛もあり得ない。

 

演劇、小説、映画、歌、テレビドラマで

男女の恋愛や親子の間の愛のようなものが

絶え間なくそれらしく流通しているので

なにが本物か分かりづらくなっているかも。

 

作品をどう解釈するかのリテラシーは

人の素質、

作品の質、

両者をとりまく環境

が育てるものだろうけれど…

 

 

目指すはずの境地が

あまりに果てしなく遠いため

あわよくばたどり着けそうな

幻に囚われてしまうことが

ほかにもたくさんあるだろう。

アニメ「青のミブロ」

第二期第13話”青の時代”にて

 

芹沢鴨がもらした最期の言葉

「いい人生だった」

 

 

最期にこう思えた人が

これまでの人類史上

どれだけいたろうか。

 

フィクションが成り立つかどうかは

人の本質のたとえ端っこでも

つかめているかどうかではなかろうか。

この芹沢像が成り立つのは

人間存在の一番深いところを

ガッツリ握った感触を

再現しているからだと思った。

メトロ劇場で

「災 劇場版」を見た。

 

色んなチャレンジを見る映画かもしれない。

 

アメリカの映画制作会社A24的なのりなのか。

ネット配信が勢力図を塗り替えているような世界で

映像表現の可能性を模索しているとも言えるのか。

 

人の認識の癖を逆手にとって

ミスリーディングの限界にチャレンジ。

不審な点があれば事件性に執着し

必ずしも直結するとは限らない

結果と原因を結びつける癖。

同じような容姿をしていたら

同一人物と見なす癖。

 

役者はどこまで

別人を演じ分けられるかまた

人ではないものを演じられるかのチャレンジ。

(あるいは同一人物と見せながら

 別人を匂わせたかったのか、その逆か)

 

日常に潜む奇妙さを

映像と音響で表現するチャレンジ。

 

人の存在と生死について

とらえ直すチャレンジ。

 

どう関係するのか分からないピースを

最終的に一つの絵にするとか

ストーリーテリングの手法を探るチャレンジ。

人種民族だけでなく

性的多様性とか

理解されにくい身体的及び心的障害とか

人の在りようは様々。

 

サントリーボスのCM

トミーリージョーンズの役みたいに

宇宙人でさえ

もうすでに地球にいたりして…

 

ドラマでもアニメでも

多様性を巧みに組み入れていたりする。

 

2026年冬アニメで放送中のものだと

●異世界の沙汰は社畜次第

●ダーウィン事変

●透明男と人間女

●シャンピニオンの魔女

●魔術師クノンは見えている

などそのジャンルに入れたい。

 

争いや対立の原因にもなる多様性に

どういう役割があるのかを知る上で

アニメ人類学があってもいいかも。