サンケイスポーツが発行する競馬専門紙『競馬エイト』のトラックマン(競馬専門紙の記者)で「攻めの吉田」としてファンに広く知られた吉田均(よしだ・ひとし)さんが3日、心筋梗塞のため死去した。75歳だった。1971年の『競馬エイト』創刊から携わり、長年にわたり本紙予想(関東版)を担当。多数のメディアにも出演していた。
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多くの競馬ファンに愛されたレジェンドトラックマンが突然、天国へ旅立った。吉田さんは亡くなる当日朝も美浦トレセンで時計班(馬の調教タイムを計測する)のトラックマンとして調教を見ていた。生涯一トラックマンを全うした人生だった。
吉田さんは東京都出身で都内の高校を卒業後、1971年の競馬エイト(関東版)創刊時はスタッフとして働き、その後、東京競馬場(当時はトレセンがなく、競馬場で調教していた)でトラックマン業務についた。人気薄でも果敢に本命を打つ予想スタイルが評判を呼び、予想コラムに「攻めの吉田」と名付けられたのが、終生の代名詞となった。
83年からは競馬エイト関東版の本紙予想を担当し、2008年まで長らく看板を背負った。89年からはフジテレビ系『スーパー競馬』の解説者となり、最近はBSフジの『BSスーパーKEIBA』に不定期で出演していた。
お酒とカラオケが大好きで、競馬場勤務の後は、仲間や後輩と楽しく騒ぐのが常。サザンオールスターズの『匂艶 THE NIGHT CLUB』を踊りながら歌うのがおはこだった。一方で、本紙予想の重圧は大きく、30代後半のあるとき、「もう仕事はやめる。明日から江の島のハンバーガー店の店長になる」と言い出したこともあったという。
馬券のうまさは業界でも一、二を争い、忘年会などがあると、その費用を馬券で捻出したという逸話が残るほど勝負強かった。後輩の面倒見がよく、誰に対しても臆せず自分の意見を言う芯の強さがあった。
誰よりも競馬を愛した吉田さん。半世紀以上にもわたるトラックマン生活の幕を静かに下ろした。
【通夜、葬儀告別式】
通夜は7日午後6時、葬儀・告別式は8日午前11時、東京都大田区東海1の3の1、臨海斎場で。喪主は兄、健三郎(けんざぶろう)さん。
■吉田 均(よしだ・ひとし) 1949年9月21日生まれ。東京都出身。71年の創刊から「競馬エイト」に在籍し、83~2008年と長期にわたって関東版本紙予想を担当。80年代からニッポン放送「日曜競馬ニッポン」、89年から00年代半ばまでフジテレビ系「スーパー競馬」のレギュラー解説者として活躍した。