東日本大震災から11年。各地で追悼の式典が行われた。

東日本大震災で亡くなった人は3月1日時点で、1万5,900人。
今もなお2,523人が行方不明のままとなっている。

そして、3月11日という特別の日を東京で迎える被災者がいる。

宮城・気仙沼市出身の千葉瑛太さん(20)。

11年前、津波により家族5人を奪われた瑛太さんと父親。
2人を支えたのは野球への思いだった。

瑛太さんが、3月11日を被災地以外の場所で過ごすのは初めて。

千葉瑛太さん「いつもと変わらない日常になるかなと思いつつ、(地震が起きた)午後2時46分に黙とうはしようかなと...」

2011年3月11日、震度6弱の激しい揺れに襲われた気仙沼市。
沿岸部には高さ20メートルを超える津波が押し寄せ、甚大な被害が出た。

瑛太さんは津波で母親の美奈子さん(当時40)、妹のくるみちゃん(当時6)、下の妹の祐未ちゃん(当時3)、祖父の宏一さん(当時68)、祖母の美代子さん(当時63)の家族5人を失い、父親と瑛太さんの2人が助かった。

千葉瑛太さん「少なからず最近は3.11のおかげで今があるなっていうふうに思えるようになってきて、もちろん失ったものも大きかったんですけど」

瑛太さんは、都内でインターネット関連の仕事をしている。

2011年10月に気仙沼市で行われた追悼式の映像。

喪服姿の父親と出席した当時10歳だった瑛太さんが亡くなった家族への手紙を読み上げた。

追悼式で手紙を読む千葉瑛太さん(当時10)「くるみ。4月から小学校だったね。祐未も幼稚園を目指してあいさつの練習をしていたのに。もっともっとけんかしたかったです」

読み上げながら時々涙がこらえきれなくなる瑛太さんを励ますように父親が頭をなでる。

追悼式で手紙を読む千葉瑛太さん(当時10)「でも、みんな天国にいっちゃったんだよね。だから、いつまでも天国からパパと僕を見守っていてください」

震災後、仮設住宅で過ごす父と2人での生活を大きく変える出来事があった。

瑛太さんが父親の清英さんに「バッティングセンターを気仙沼に作ってほしい」とお願いしたという。

その日から、これが2人の夢に。

父親は経営する牛乳販売店で資金を集め、周りからの援助もあって2014年、バッティングセンターが完成した。

初打席に立ったのは当時12歳の瑛太さんだった。

震災当時9歳だった瑛太さんも2022年1月、成人式を迎えた。

午後2時46分を初めて東京で迎えた瑛太さん。
新たな夢があるという。

千葉瑛太さん「世界(1周)にも行きたいですし、こうやって(震災のことを)世界に伝えていく人というのは必要なのかなと思うので、旅を通して世界に3.11ということを、これから先、語ってつないでいけたらいいなと思っています」