「あら。」
その時、麗は、サイエンスルームの入口で立ち止まり、小さく声を上げていた。
微かな光が、麗をかすめて行ったのだ。しかし、その光の放った色あいは、猛と舞のものではない。誰なのかしらという一瞬の疑問が、麗の口から小さな声になって出たのだが、次の瞬間、彼女は、その光の中の匂いを敏感に嗅ぎ取って、その人物を頭に思い浮かべていた。
(剛也だわ。)
ハヤトのチーフパイロットを務めるほどの、優秀なパイロット。
少年でもなく青年でもない、その境界で揺れもせず立っている五才年下の男。
その剛也が、淡い憧れを自分に抱いていることを、麗は知っている。知っていながら放っている麗だったが、それは悪い気分ではなかった。才能のある若い人間が、麗は好きなのだ。いつか本当の恋をして去って行くと思うから、穏やかに見守っていられる。
ガラスのように透明な繊細さを持っているくせに、ある面では呆気に取られるほど大胆で、ハッとするような大人の表情をするかと思うと、次の瞬間には、もう子供のような邪気のない顔で笑っている。猛や飛翔の五年後は、ある程度想像できるような気がしたが、剛也の場合は全く想像がつかず、逆にそれが、
(この子はどんな大人になって行くのだろう?)
という興味を繋ぎ、楽しみでもあった。そんな剛也のことを思い出すと、いつでも、麗の顔には微笑みが浮かんでしまうのだった。
今も、麗の顔にはまず微笑みが浮かんだ。見ている者がないのが惜しいくらいの、極上の笑みであった。それから、麗は、かすめて行った光の意味を考えようとしたのだが、その前に、彼女の細い足は、サイエンスルーム入口の自動ドアを踏んでしまっていた。
とっくに消灯されている部屋の一角から、光が漏れている。そこには、一人残って机に向かっている独の姿があった。
「ハイ、独。」
剛也の放った光の意味はまた後で考えることにして、麗は、片手を上げて独に呼び掛けた。
「麗か。」
振り向いた独の表情がわずかに和むのを、麗は見逃しはしない。猛では見逃しても、飛翔なら見逃さないその表情の変化は、一度も口にされたことはない、麗に対する独の気持ちを物語っている。それは、剛也の場合と違って長く放っておいてよい性質のものではないことは、麗にもよくわかっていた。が、わかってはいても、今はこの心地好さに浸っていたい麗であった。
「こんな時間まで調べもの?」
「ああ、ちょっとね。」
そう言って自分を見る独の、静かな水面のような瞳が、麗は好きだった。今も星の彼方で別れた人のことを忘れられないくせに、思い出したように独に会いたくなる。そんな麗の気紛れを、独は、いつも穏やかに迎えてくれるのだった。
(この人は、いつまでこうしているのだろうか。)
この静かな男は、千年でも二千年でも、こうして穏やかに待ち続けるに違いない。そう考えると嬉しくもあり、自分の身勝手さに腹が立ちもする。
「何よ、これ。『ギジェの眠り』じゃないの。こんなもの引っ張り出してると、また猛が怒るわよ。あの子怒らすと、面倒なんだから。」
そう軽口を叩きながら、麗は、独の机から一冊の本を取り上げた。
「ギジェの眠り」とは、ルーナンシアに伝わる予言書である。宇宙の過去と現在と未来について記されたその書の内容は正確であり、事実と等しいとさえ言われている。ティアリュオンへの旅の途中、ルーナンシアに立ち寄った時に、レムリアの許しを得て、独がコピーしておいたものだ。
「頼みの科学技術長神宮寺独までもが予言に頼ってるようじゃ、相当苦労しそうね、私たち。」
「そう言うなよ。実際、俺も少々参ってるんだ。」
「冗談よ。」
麗は、ギジェの眠りを机の上に戻すと、航海計画部門チーフの顔に戻って、椅子に腰掛けた。
「それで? 何か情報は得られて?」
今度の航海には、あまりにも何が何だかわからないことが多過ぎる。独でなくとも、少しでも手掛かりが得られそうだと思えば、それがたとえ予言書であろうと、調べずにはいられないだろう。
「いや。大体、予言てのは、読みようによって幾らでも違う解釈ができるものだからな。元々、当てにするつもりはないんだが……、しかし、どう解釈しても、紫色彗星らしきもののことは、どこにも書かれていない。」
「……そうでしょうね。ここで滅びて行くのが運命なら、レムリアも、あんな風に私たちの前に現れたりはしないわ。」
麗は、独が立って入れて来たコーヒーを受け取ると一口飲み、カップの縁に微かに残された紅を指で拭った。英雄の丘に幻影となって現れたレムリアの、苦しみと悲しみに満ちた表情が思い出され、胸が締め付けられるようである。
「どうした。何か用があったんじゃないのか。」
独も机を挟んで麗と向かい合うと、カップを口に運んだ。独も麗も、コーヒーはブラックで飲むのが常である。
「そうね、転職の相談。」
「何だそれは。」
独が問い返すと、麗は真顔で話し始めた。
「お蔭様で、今のところ航海の方は計画通り、順調そのものなのだけれど、ルーナンシアへ着いた後の計画の立てようがないのよ。ルーナンシアへ着いたら何がわかるのか、次はどこへ行けばいいのか……。何もわからない。で、何か見通しはないかと思って、科学技術長にお縋りに来たのだけれど、頼みの独まで予言書と首っ引きじゃあねぇ。計画を立てられない計画員なんて、陸に上がった河童同然だもの。これはもう、女戦闘員にでもなるしかないかしらね。」
「女戦闘員はよかったな。」
独が思わず笑うと、麗は、
「笑い事じゃないわよ、独。」
と、机に肘を突いて独へ詰め寄った。
「本当のところどうなの、あなたの見通しは。」
「……そうだな。」
結局、麗はそれが聞きたかったのだ。独も、冷徹な科学者の顔に戻ると、自分の考えを語り始めた。
「正直言って、皆目わからんよ。だが、二つだけ言えることがある。一つは、今回の危機が本当の意味で宇宙の危機であること、もう一つは、やはりキーになるのはラ・ムーの星と舞だということだ。」
麗は、集中している時の癖で、伸ばしかけの前髪を右手で弄びながら聞いている。
「俺はいつも思うんだが、ルーナンシアという星は、宇宙の代弁者のような星だろう? 宇宙を流れる時の中には、生命の繁栄があり、滅亡がある。幾多の戦いがあり、生まれ来る者があれば、死にゆく者もある。数々の試練があり、希望があって、絶望がある。そんな時の流れを遥かに見据えながら、宇宙が正しい方向に発展して行くように、全ての生命を導いて行く……。そんな役割を担っているのが、ルーナンシアなんだ。」
麗は黙って頷いた。
美しく平和なルーナンシアの情景が、次々と脳裏に蘇って来る。独の言うように、幼い生命たちを見守り、導いて行くために、神が造り給うたような星だった。
「だから、ルーナンシアは、その役割を終えるまで、決して滅亡することはないはずだ。だが、今、ルーナンシアは滅びようとしている。その原因が紫色彗星にあることは、もう間違いないと言っていいだろう。しかし、それは、宇宙の歴史の中では、明らかに予定外のことだ。ギジェの眠りを調べてみて、ますますそう感じた。」
「……だからこそ、レムリアも、尋常ならざる様子で私たちに危機を伝えに来た、というわけね?」
「そうだ。これは、地球とデイモスが戦った時のような、限られた地域での勢力のぶつかり合いではない。放っておいては、いつか宇宙全体の秩序が崩壊してしまう……。そんな大事件なんだ。」
麗は、再び黙って頷いた。机のスタンドの光が、独の顔に彫刻のような陰影を作り出している。その陰影の中で、独の目だけが光を弾いて麗を見つめていた。
「あの時、英雄の丘で、レムリアは『ラ・ムーの星を』と言ったろう? この宇宙の危機を脱するためには、どうしてもラ・ムーの星が必要なんだ。だが、恐らく、ラ・ムーの星だけでは敵を倒すことはできまい。もし、ラ・ムーの星だけで事足りるのなら、わざわざルーナンシアまで持って来させる必要はないはずだからな。じゃあ、他に何が必要なのか、ということになると、想像もつかん。ルーナンシアでレムリアに会えれば、それもわかるだろうがね。ただ、ラ・ムーの星を最大のキーとして事態が展開して行くことは間違いない、と俺は思う。となれば当然、舞もその流れに巻き込まれる。」
「でも、レムリアは、舞の夢には現れなかったそうよ。舞が絶対に必要なら、そんなことにはならないはずじゃないかしら?」
麗が疑問を口にすると、
「その点も、俺の気掛かりの一つだ。レムリアは、なぜ舞の元に現れなかったのか?」
と、独も同意した。
「もしかしたら、今回、ラ・ムーの星と舞の関係は、舞の祈りにラ・ムーの星が応える、という形にはならないんじゃないだろうか? 何となくそんな気がするんだ。しかし、ラ・ムーの星とレア・フィシリアが対である限り、全くの無縁で済む、というわけには行かんだろう。」
独は、二杯目のコーヒーを入れに席を立った。
「見通しと言っても、この程度のことしか、俺には言えんよ。わからないことが多過ぎるからな。後は、その場その場をどう的確に判断して切り抜けて行くか、だ。そのためには、その時々の判断の材料にするネタをできるだけ多く仕入れておくことと、鋭気を養っておくこと。もう一つ、舞と猛を全力で支えてやる覚悟をしておくこと。舞がラ・ムーの星を正しく使うためには、支えが必要だからな。まぁ、今できることはそのくらいだろう。ここまで来てじたばたしても始まらん。やるしかないさ。」
麗は、飲み終えたカップを静かに置くと、短く息をついた。
「やっぱりそうよね。」
独が語ったことは、麗の考えとほとんど違わない。
「もしかしたら、独なら、もっと別のいい見通しを持っているんじゃないかと思ったのだけれど……。」
考えるだけ考えたら、後は静かに成すべきことを成す。それはいかにも独らしく、麗には羨ましかった。
「……焦ってもどうにもならんぞ。麗らしくもない。」
独は、麗の言葉の中に微かな苛立ちを感じて、そう言った。
麗は、独を見てちょっと笑い、それから、天井を仰いで、目を伏せた。シャープな顎の線が、麗の顔の輪郭をくっきりと際立たせて美しかったが、いつもの鮮やかな印象はなく、どこか頼りなげな曖昧さが漂っていた。
「……本当言うとね。少し怖いのよ。次のワープでルーナンシアへ着いたら、そこに何が待っているのか。それから先、ハヤトはどうなるのか……。」
麗は、独が自分の怯えを払うような見通しを語ってくれることを期待して、ここへ来たのだ。だが、それが無理な相談であることは、麗にも、初めからわかっていたはずだった。
女王レムリアがルーナンシアは滅びると告げた以上、良い見通しなどあるわけがないのである。
「こんな、怖いなんていう気持ち、自分では扱い兼ねるのよ。ティアリュオンへ行った時とは、何かが違う。そう思うと、一人ではじっとしていられなくて……。」
「麗……。」
それは、麗の素直な心情の吐露だった。独は、麗のその素直さを危ういと感じたが、それも一瞬だった。
伏せていた目を再び開くと、麗は、ありがとう、と言って立ち上がった。その眼差しには、夏空を思わせるような、いつもの眩しい輝きが戻っている。やはり、そう簡単に隙を見せるような麗ではないのである。
しかし、それでも、ここへ来て良かった、と麗は思っていた。
大地に深々と根を張る一本の木のように、静かに立っている独。その幹は、堂々と年輪を重ね、磨き上げられて、決して揺るぐことはない。梢は遥かな未来を見通すようにしなやかに伸び、美しい葉が精神の充実を示して青々と繁っている。
自分は、太陽を求めて大空を翔び、疲れ果てては時々木陰に舞い戻って来る、小さな鳥なのだ。木は、動くことなくいつでもそこにあって、傷つき、疲れた小鳥を癒してくれる。暖かい枝に止まり、優しい葉擦れの音に包まれる時、小鳥は、自分が何ものからも守られ、安心して休息できることを知る。そして、そんな穏やかな場所に還ることが許されているからこそ、自由に翔んで行ける己を知るのである。
独にしても、一人ではじっとしていられない、と言う麗が、迷わず自分の所へ来たのは、嬉しいことだった。
美しい小鳥はすぐに翔んでゆき、幾ら愛しても、腕の中に留めておくことはできない。しかし、目指す太陽はあまりに遠く、空は果てしなく広く、疲れた小鳥は必ず翼を休めに戻って来る。今はそれでよい、と思えた。
「さてと、これはいよいよ女戦闘員に備えなくちゃ。射撃訓練場にでも行って来るわ。」
射撃の腕は一流、B級パイロットのライセンスまで持ち、冗談でなく、戦闘隊に入っても十分やって行けそうな麗であった。
「無理するなよ。幾ら徹夜が特技でも、短期決戦ではバテるぞ。」
部屋を出て行こうとする麗の背中に、独が声を掛けると、麗は、
「ご心配なく。でも、腕が鈍って使いものになりそうになかったら、その時は、あなたの助手に雇ってちょうだい。」
と、振り返って鮮やかに笑った。いつものように、あでやかで華やかな笑顔だった。
それは、息を呑むほど美しく、独は、
「ああ、いいとも。」
と、手を上げて送り出すのが精一杯だった。