またまた統治体サマからありがたいお達しがあったそうですね。


 心底くだらない、と思いつつ、ツッコミアーカイブとして記事にすることにしました。


⚫︎排斥者を無視する必要なし!簡単な挨拶ならオッケーです!


 何ですか?それ?

 もうね、偏差値低すぎて呆れるばかりですよ。

 そもそも、本来指示されるような事じゃないでしょうに。


 あのね。

 ワシは、JWの聖書原理主義みたいなところは、致し方なしとして理解していたし、誤解を恐れずにいうなら評価もしていたのですよ。

 なのに、その原理主義的な部分を売りに出すのですか?もう、ね。言葉は汚いけど、アホなんですか?と聞きたい。


 この戒律の源流は、ヨハネ第二の手紙全体を要約した、「反キリストには挨拶すらするな」から派生したものでしょう。

 この厳格な適用が日本をはじめ、各国で人権蹂躙であると問題にされてきたわけですね。


 でね。

 教団の戒律を見直すのは良いよ。

 だけどね、見直すべきは、「挨拶をするな」の部分ではなく、「反キリスト」の解釈の部分の方ですよ。

 JWは「反キリスト」を「反JW」と勝手に拡大解釈してきました。ここが、大間違いの大勘違い。

 これは、キリストを否定していなくても、「教団」を否定していたら忌避するという、聖書の原則を大きく踏み越えた、勝手規定であり、だからこそ社会的に問題にされていたのよ。


 あのね。

 聖書を真摯に読めば(いや、普通に読めば)、ヨハネが言いたかったことくらい、分かるでしょう?

 義務教育レベルの読解力があれば。

 一世紀当時のクリスチャンコミュニティの中にあって、キリストの降臨を実際に見たのに、或いはかなり身近にその事実を聞いているのにも関わらず、その事実や教えの根本を否定する者がいるならば、その人は「家に入れてもならないし、挨拶をしてもならない」と。

 国家という概念が現代ほど固定化していない時代において、宗教は強烈なナショナリズムの固着剤であり、そのためヨハネは、他流派の混入がキリスト教の解体、ナショナリズムの解体を招く、というセンシティブな感覚を根底にした危機感から、こういう表現で信者に手紙を送ったのでしょう。


 ところで。

 JWを辞めて行く人の中で、どれだけの人数の人が、「キリストはいない」「キリストの教えは役に立たない」と、強く感じて、かつ宣言しているのですか?

 大半が教団のカテキズムやオリジナル教義についていけないから辞めて行くのでしょう?

 かく言う脱塔者のワシも、キリストを否定する気は無いし、聖書を尊重していますよ。


 また、教義への思想以前に、JWのある種、厳格な道徳的戒律に違反したとして排除された人も多くいます。


 というわけで、教団否定派と破門組が圧倒的に脱塔理由を占めるのであり、脱塔者の99%を占めると言っても過言では無いように思います。


 そう。

 JWなんざ、そもそも教義の中でキリストをマスコット的にしか扱っていないのに、この宗教で育った人達がそのキリストを根底から否定するほどの強烈な思想を宿すようになる、ってなことがレア中のレアでしょうに。

 だから、多くの脱塔者は、この教団の「解釈」に同意できなくなるだけで、聖書の描く「キリスト」を敵対的に捉えているわけではないでしょうに。


 なのに。

 こういった人達を、「反キリスト」という大罪指定をして、極刑に値するものとして扱ってきたことこそが、大間違いなのであり、傲慢で恥知らずな教団の姿勢を如実に示すものだったわけです。


 だから、本来は、聖書的に見て「反キリスト」のような人がいれば、引き続き、「挨拶すらしない」のが聖書的に正解である、という動かしようが無い事実を継続していても、浅はかな「大罪認定基準」を見直しさえすれば、カルト色を薄めることは出来たし、すべきなんですよ。


 つまり。

 教団から出ても、「反キリスト」ポジションを取る人以外は忌避対象にしない、と言えば、大方問題は解決するのです。


 考えて見れば、既成キリスト教会の中にも、明確に「反キリスト」スタンスをとる人と距離を置く教派はあるし。

 他にもイスラムやユダヤ教と言った厳密な一神教の宗教は、そうした排他的な教説を保持しているものです。

 それでも彼らは、簡単に「破門」措置を使わないし、仮に教派的理解を否定的に語る人がいても、それを「反ゴッド」という重犯罪に仕立てたりはしないのです。


 だから、そーゆー、まともに社会浸透している先輩宗教と同じ路線を取ることが、本来、今回の変更路線のキモとなるべきだったのです。


 なのに。

 愚かとしか言いようがない、ヨハネの言質の後半部分、「挨拶すらするな」を取り上げて、「ちょっとくらいなら」挨拶してもえーよ、という、子供騙しで偏差値の低い、その場しのぎで敬意の欠けた新説、いや珍説を掲げるから、情けなくなるのです。


 忌避行為の見直しを行う、と言う前提で、今回の展開としてあるべき姿は。



 親愛なる兄弟たち

 この度、北欧における司法の場で、私達が組織を去った人たちに対してとってきた行動規範が、人権的問題を孕んでいる、との判決が出されました。

 これを機会に、私たちは、改めて聖書を研究、分析し、真摯に皆さんと共に歩む上で必要な指針について、神に祈り求めました。

 その結果、以下の決定に至ったことをお伝えします。

 私たちは、過去にヨハネの述べた「反キリスト」の解釈を独自に拡大していたことを認めるに至り、その誤りを反省し、ヨハネがその手紙で指摘する部類の人は、一体どんな人を指すのか、明確にお知らせするのが良いだろう、と考えました。

 ヨハネは、この手紙の中で、キリストの存在そのものや、その教えの根幹を真っ向から否定する人を「反キリスト」として指弾し、そうした人達とは「挨拶すらせず」、「家に入れることもしないよう」求めました。この教えに引き続き従うことは、重要です。(ヨハネ第二 7、10)

 しかし、私たちの組織を去った人の多くは、この、ヨハネが指弾した罪を、犯した部類の人達と言えるでしょうか。

 私たちが知る限り、組織を後にした人の多くは、聖書で示される道徳的な生活を送ることに難しさを感じたり、その価値観を第一にして生活することを軽んじたりすることをきっかけに、組織を後にしたり、排斥されたりしてきました。

 親族、友人がこうした決定をすることで排斥になったり、断絶したりすることはとても悲しいことではあります。

 しかし、彼らの決定は、恐らく多くの場合、「キリストの存在そのもの」や、「その教えの根幹」を否定するものではありませんでした。


 今後、私たちは、組織にいなくなった人のうち、ヨハネの指摘した、「反キリスト」を唱える人以外については、他のクリスチャン仲間と同じように愛を表し、気遣いを示す対象として接することができるでしょう。(ヨハネ第二 6)

 このように私たちが、精錬された理解に基づく愛を示すことにより、多くの人が再び組織に戻ることを決意するに違いありません。(詩編18:30)

 この解釈の変更は、全能の神イホバが私たちに示してくださった知恵の道と確信できるでしょう。

              皆さんと共に

            ほすみの塔統治体


 

 ふぅ。




 今回の統治体サマのありがたいお達しには、女性のスラックス禁止撤回とかも含まれていたそうで。

 最近のヒゲ解禁も、奉仕時間報告義務免除も、まあ、バカバカしくありつつも、信者が生きやすくなるならそれでいいかな、と生暖かく見る程度の、幼稚な代物でしたが。


 今回の忌避曖昧令は、その極みでしたね。


 パウロは、コリント第二1:24の中で、今でいう教団等の信仰組織を指して、群れるのは「喜びの同労者として」であり、自分以外の誰も信仰の面で「主人」たり得ない、と喝破しました。

 また、ローマ人に対しては、信仰にはグラデーション、いや、バリエーションがあって、誰が正しいかを比較する事はナンセンスだ、とも説いています。(ローマ14:23)


 こうした聖書の諭す基本的な枠組みを知り、そして常に、仲間に対する愛情を持ってさえいれば、そもそも、JWにある無用、いや有害ですらある教義の大半は放棄できるはずです。

 しかし、JWの幹部たちは、今回のような見直しの機会をすら、健全に活用できない、根底から腐敗した連中であることが明らかになりました。


 非常に、残念です。



 今回のような、敗訴をトリガーとした日和見主義程度の教義改変なら、やらない方がマシとさえ、思います。


 なんなら、「北欧で負けたけど、ワシらは忌避は撤回せんぞー」くらいのスタンスの方が、ワシ的には、愚か、と断じつつも、一定の「筋を通す美学」を見たかもしれません。



 まーね。

 でもね。


 これで、信者たちは、また「新しい光を見た!」とキャッキャ喜ぶのでしょうし。

 いや、ともすれば、「規律が緩和されて楽になったのだから、喜ぶべきでしょう!」と言わんばかりに、統治体サマに感謝するのでしょうから。



 結局、このカルトは、聖書を自己都合で利用することしか能がない幹部と、それを喜んで支持するふしだらな愚民で構成されている、と結論して見放すしかないのでしょうか?


 ワシは、人生の大半、青春の全てを捧げたこの教団に対して、負の感情だけでなく、荒れ果てた故郷を偲ぶ寂寞に近い感情も持っていたのですが。

 もう、その故郷は偲ぶにも値しない存在になりつつあり。


 せめて、かろうじてワシの中で生き残る美しい思い出や、少ないけども確かにあった美点までをどんどん捨て去る、沈みゆく船を見て。



 今日も複雑な感情に襲われるのでした。