「タテマエ」と「ホンネ」はよく日本人的な人間関係のあり方の代表として挙げられますね。
僕も中学校の時、漱石の「坊ちゃん」で「本音と建前」について読書感想文を書いて、なかなかほめられた記憶があります。
さて、現代文で今日やった、阿部謹也の「『教養』とは何か」という文章で、本音と建前について、「世間」と「社会」の対比を用いて、ちょっと興味を惹かれるようなことが書いてありました。
「従来(明治以前)の人との関わりとは、世間(個人よりも先に属する人間関係)であり、近代化の中で、『世間』という言葉がSocietyの訳語、『社会』に置き換えられるにつれ、『世間』は表舞台から姿を消していった。人々は世間をまるで無いもののように扱っているが、実際には私的生活の基礎たる『世間』は未だに私達の大部分を占めている。これが、近代化のもたらした最大の問題―政治、法制、教育、その他あらゆる面においての二重生活―を生み出したのである」
出題部を要約すると、おおよそこんな感じです。
これまで僕がイメージしていた「本音と建前」というのは、日本人が古来から性質として持つ、いわゆる「モンスーン型風土」に由来するようなものでした。
ところが、阿部謹也に言わせると、どうも本音と建前というのは、「近代化における欧米的思考と日本的思考のジレンマの結果」ということらしい。
確かに筋は通っているような気がしますが、果たしてどうなんでしょうね?
本音と建前という概念が生まれたのは、本当に明治以降なんでしょうか?
古文とかを読んでいる限り、たしかに「本音と建前」的な話は出てこない様な気はしますが、あのへんの文章というのは、やはり大部分が貴族の話。さらに、普段見るような文章は、その中でも更にピックアップされたものだし、あまり参考にはならないかもしれません。
一方、町人文化期は、あくまでイメージですが、江戸っ子は「ホンネ」のイメージです。また、結局朱子学が栄えていた時代には、「本音と建前」は許されなかったのでは、とも思います。
うーん、謎ですね。こういう禅問答にちかいものは、 また考えてみたくなります。
あくまでも「答えを出す」より「探る」という方に重点をおいて。