前回の続きです。
これは、
国立広島原爆死没者平和記念館にある
被爆者の母の体験記の一つです、
母は原爆に17歳時に遭いました。
これは61歳時に書いたものです。
(母は現在95歳)
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私は寝たきりの母の看病と
弟の消息を尋ねて市中を歩きながら
小学校の講堂でおにぎり一つの
生活が2ヶ月続きました。
その母は…
昭和53年、年の瀬も迫った
12月27日胃がんを手術後
そのまま回復することなく
行方不明の息子を愛おしみ
“記憶喪失でどこかに生きていてくれたら…”と
息子の最期のことを気にかけ、
悲しい思いを胸に抱いたまま
75歳の生涯を閉じました。
42歳で被曝して何十年にも渡り
病気をして9回も手術で入退院を
繰り返して来ました。
医者とは縁が切れず、
食事は取らなくても良いと
思う程の量の薬を飲んで
ただ、ひたすらに息子の
供養を大切に、
そして息子の消息の知れる日の
来ることを祈りづづけて頑張って
いましたが、
その願いも叶えられずでした。
私も被曝後、
体質がすっかり変わってしまい
ずっと医者と縁が切れたことがなく
次から次へとあらゆる
薬を飲んで耐え忍んでおり、
これからも老化の進んでゆく身の
尚更に被爆者であることの
不安は募るばかりです、
飽食時代と言われる現代
恵まれている日本ですけど
弟が
「お母ちゃん、いっぺんでええから
真白いご飯をお腹いっぱい
食べたいね!」
と8月5日の夕食時にもらした言葉、
今も私の耳に残って
忘れることはできません。
幼い子供達まで巻き込んだ戦争の悲劇は
今もなお続いております。
原子爆弾の恐ろしさ、
無惨に散った幾十万の犠牲者を
思います時、
この地球上より原子爆弾を
無くする様、生き残った私たち声を
大にして叫びたいと
再び被爆者を作らないために
一人一人の力は弱いかも知れませんが
皆が心一つにして頑張りたいです。
最後に原子爆弾被災犠牲者の
ご冥福を心よりお祈り申します。
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母のこの体験記は
語り継ぐ場での原稿用紙で時間が
限られていたため以上です。
最後まで読んでくださって
ありがとうございました。
国が原爆症として認定している病気は
悪性腫瘍、白血病、副甲状腺機能亢進症、
放射線白内障、心筋梗塞、肝機能障害、
副甲状腺機能低下症です。
被爆から年月を経て、
白血病やがんによって亡くなる人が増えていきました。
白血病発生の増加は、
被爆して2年から3年後に始まり、
7年から8年後に頂点に達しました。
一方、がんが発生するまでの潜伏期は長く、
被爆後5年から10年ごろに
増加が始まったのではないかと考えられています。
これは「原爆の子の像」です
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佐々木禎子さんは
2歳で被曝し、無傷で元気に
育っていたのに
9年後に白血病になり回復を祈り、
折鶴を折り続けました。
が、8ヶ月の闘病の末、亡くなりました。
禎子さんの死をきっかけに、
原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め
平和を築くための像が作られました。
今も「原爆の子の像」には
毎日、毎日、日本国内、
世界各国から折り鶴が捧げらています。
私と一緒、被爆者2世の友達の中に
甲状腺癌が多いです。
こうして2世にも影響があるのに
認定は被爆者当事者のみです。
年に1度だけ被爆者2世健診がありますが
凄く簡単な身長体重血液検査です。
3世には何もありません。
私たちは2世、3世にもある影響を
精査し研究して欲しいと声を上げています。
次は私が母から聞いた
原爆の話を書きたいと思います。

