国立広島原爆死没者平和記念館にある
母の体験記の一つです、
母は原爆に17歳時に遭いました。
これは母が61歳時に書いたものです。
(母は現在95歳)
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いとしき弟
被曝45年遠い道程を悲しみと苦しみを
背負って歩いて来ました。
これからもこの消えることのない悲しみと苦しみを
影の形の添う如く胸に宿して
歩いて行くことでしょう。
8月6日の広島、
好き通るような青空の広がる早朝
「お母ちゃん、行って来ます!」
大きな声で元気よく出かけた弟は
14歳、崇徳中学校3年生、英一郎でした。
そしてこれを最後に再び帰っては来ませんでした。
学徒動員で家屋倒壊作業に
小綱町に向かったのです。
作業も進んで先生の笛の合図で
ロープを引っ張る体制になったその時
原爆は投下され阿鼻叫喚
先生は
この世の地獄さながらに家屋の下敷きに
なった学徒をひとりひとり救い出し
「市電の路線に沿って己斐方面に逃げなさい」
と指示され、
全員助けることができてよかったと
家にたどり着かれた2日後に
亡くなられたこと、
弟の親友宅で聞きました。
その友達も無傷で帰宅したのに
1週間後に原爆症に苦しみながら
亡くなられたと…。
私の弟の消息はわからず
とうとう見つけ出してあげることが
できませんでした。
どこでどのようにして
母を、姉の名を呼び
水を欲しがりながら
母の来てくれる事を待ち侘びながら
淋しく散ったのでしょうか
行方不明、なんと悲しい言葉でしょう
断腸の思いです。
母も義勇隊で鶴見橋の袂に
倒壊家屋の後片付けに出かけたのです。
母の消息が知らされたのは5日目の朝でした。
向洋小学校に、着物を持って来てくださいと
連絡がありました。
広島駅よりバスに飛び乗りました。
バスの天井は真っ黒です。
何だろうと目を凝らすと
それは天井一杯に張り付いている蝿でした。
誰1人としてそれを払い退けようとする人もなく
乗客は唯無言の車中でした。
腐敗の匂いなのか、
死臭なのか得も言われぬ悪臭に
一瞬たじろぎながら小学校の講堂の中は
足の踏み場もない焼け爛れた人、人、人。
その中の一隅に母が
左半身着物も焼けてなく
火傷で大木のように腕が腫れ上がり
膿は流れて床濡らし
左腕にはウジ虫が湧いていていました。
爆風で飛ばされ腰が痛くて
座る事もできない。
激痛に耐えながら子供の安否を気遣っていて
弟のまだ不明に胸を痛め
どこかに生きていると望みを持たずには
耐えられない…。
まだ続きます