河野有理著「日本史はいかに物語られてきたか」(新潮選書、2026年刊)を読んだ、著者は2003年、東大法学部 卒業、専門は政治学・日本政治思想史、法政大学法学部教授、主な著作には「政治学・政治学入門:歴史と思想から学ぶ」(有斐閣ストゥディア、2024年、犬塚元との共著)、「偽史の政治学:新日本政治思想史」(白水社、2015年)などがある、失礼ながら知らない先生だった

 

 

著者は、本書が扱うのは政治思想史、とりわけ戦後日本の思想史であり、着目するのは「日本史」であるとしている、そして、本書では17章で18人の日本史の通史的叙述について、主にその「お話の筋」とそこに潜む「史観」に着眼して、当時の政治社会的な状況を勘案しつつ分析したものである、すなわち、「史観」という視点から探索的に見えてくる風景を叙述することにあるとしている

 

本書で取り上げた18人は、百田尚樹、渡部昇一、坂本多加雄、西尾幹二、上野千鶴子、網野善彦、佐藤誠三郎、山口昌男、小松左京、吉本隆明、山本七平、松本清張、遠山茂樹、家永三郎、羽仁五郎、山川菊栄・高群逸枝(たかむれいつえ)、平泉澄(きよし)である、この中でその著作を1冊でも読んだことがある方は6人しかいない、名前だけ知っている人を加えると12人になる

 

読む前は日本史の「史観」という言葉から、太古の昔から現代までの日本の通史を肯定的に語る「史観」と批判的・否定的に語る「史観」などが主な分析対象かなと思って読んだら、結果はそういったイメージとは少し違った書き方であった

 

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本書の中で頻繁に取り上げされているものが、歴史教科書問題(新しい歴史教科書を作る会を巡る議論)、天皇制を巡る問題、左翼思想と歴史・史観を巡る問題などである、著者が指摘する通り、日本史はある時期まで(おそらく今でも)左翼の牙城であった、その左翼の「史観」を「自虐史観」と批判した作る会に左翼陣営が激しく反応を示したのももっともだ、そしてその「自虐史観」と作る会の史観との対立は慰安婦問題などで対立を生むのも当然であろう、そして天皇を批判的に見る史観、例えば万世一系などは虚構であるとの考え、と肯定的に見る史観との対立も生じるのでしょう

 

どちらの立場も歴史専門家や興味がある人が研究を続けて、議論を続ければよいと思うが、左翼がこのような問題でいまだに大勢を占めているのは日本の大きな問題であろう、日本は左翼天国だ、そして左翼利権がいっぱいある、歴史教科書の執筆・販売などはその典型だ、自分たちの権益が侵されると思ったら作る会に激しく反発したのでしょう

 

本書がその作る会を巡る教科書問題を未だに多くの紙幅を割いて取り上げるのには違和感を覚える、その問題が大事と考えるなら、過去において長期間有色人種国家を侵略し、植民地支配してきたイギリスやオランダ、フランスなどの歴史教科書において、負の歴史についてどう取り上げているのか、比較検討してもらいたい

 

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さて、本書の中でこの教科書問題に関連して興味深かったのが第13章、家永三郎「くにのあゆみ」だ、その中で著者は、松本清張に「カルネアデスの舟板」という短編がある、この小説の特色は、国家による思想統制の強化というアングルから描きだしたものではなく、教科書利権からの「進歩派」の締め出しという下部構造(?)的なアングルから描き出したことにあり、清張の性格がよく出ていると書いている、この清張の本は私も偶然読んでいたのでこんなところで言及されるとは驚いた

 

 

著者は、当時、歴史教科書の執筆および販売が進歩派の利権なのではないかという疑問を完全に払しょくすることは難しく、その意味で、清張の小説は進歩派にとって嫌なところを突いていたのであると書いている

 

著者は、この小説の主人公の進歩的歴史学者玖村のモデルは家永三郎が想起された可能性もあるとする、もちろん玖村と家永とでは歩んだ道が全く異なるが、読者は家永の言動から清張の小説の読者の脳裏に浮かんでもおかしくない存在であったと言えよう、と書いている

 

そして、教科書利権をテーマにする短編であるが、裏テーマは「進歩派」から「国家主義」へ、あるいはその逆方向への転向の問題である、この問題についても家永を想起した人がいただろうか、と書く

 

1965年に教科書裁判が提起されると、家永に対する右翼側からの人身攻撃は勢いを増し、皇国史観から左翼史観への転向者と言われる、これは雑な言い方だが、転向や変節が云々されたのはまったく理由がないわけではないとして、平泉澄との関係や家永が書いたものを通時的に見ていくならば、そこにはある思想の変化が露呈しており、教科書裁判の開始前から業界関係者の関心を引いていたらしいと書いてある

 

家永は1946年に刊行された最後の国定教科書「くにのあゆみ」の古代から平安時代部分の執筆を担当したが、左派の歴史学者から猛烈な反発を招いた、家永の仏教と聖徳太子を重視する史観の急所を攻撃したのである

 

興味深いのは、この時期の家永の教育勅語に対する評価である、「くにのあゆみ」刊行の2年後、1948年に出版された「日本思想史の諸問題」には、「教育勅語成立の思想史的考察」が収録されており、家永は教育勅語には「立憲政治の道徳を積極的に高揚」し「頗る普遍性豊かにして近代的国家道徳を多分に持った教訓」となったと高く評価するのであるが、こうした高評価は後年には影をひそめる、家永の「思想の変化」は敗戦時ではなく、おそらく1950年代後半に起きたと書いてある

 

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ここからは自分の意見であるが、学者の中には、政府の審議会や有識者会議の委員などになって名を売り、箔をつけたいため政府の方針に従った見解を出す者と、朝日新聞などに取り上げてもらいたいため、何かにつけ反権力の姿勢で政府提出法案などを疑問視する見解を出す者がいる、歴史の分野でも、政府が東京裁判を受け入れ、戦勝国が書いた歴史観を受け入れたため、その史観に沿った歴史書や論文を書かなければ政府から重用されないし、研究予算もつきにくく、教科書の執筆のお役も回ってこない、学内で上の偉い教授がそうなら若い研究者もその史観を批判すれば出世もできないでしょう、だから政府公認の歴史観を批判するのは渡部昇一氏のように歴史学専攻の学者ではなく、それ以外の分野の学者や小説家などである、近現代史分野においては学問の自由など無いに等しいのである、こんな偏向した歴史学者の見解が学問的成果や専門家の見解として尊重される現在の歴史教科書はまさに「国家による思想統制」の道具である

 

本書の中では左翼史観、マルクス主義史観など私にとってなじみのない世界のことが多く書かれているのも興味深い、知らなかったことも多くあった、例えば、上野千鶴子は左翼陣営からも批判を受けている、吉本隆明は非共産党系左翼、いわゆる新左翼運動の思想圏の一つの中心となり丸山眞男らを批判したなどだが、戦後の共産主義全盛時代のことももっと知る必要もあると思った

 

勉強になりました