映画「サンキュー、チャック」を観た、2024年製作、111分、アメリカ、原題:The Life of Chuck、監督・脚本:マイク・フラナガン(1978年、米)、振付:マンディ・ムーア

 

作家スティーブン・キングが2020年に発表した短編小説「チャックの数奇な人生 イフ・イット・ブリーズ」を映画化したもの

 

 

大規模な自然災害と人災が次々と地球を襲い、世界は終わりを迎えつつある、インターネットもSNSもつながらないなか、街頭やテレビ、ラジオに突如として、「チャールズ・クランツに感謝します。素晴らしい39年間に、ありがとう、チャック」という広告が大量に現れる、高校教師マーティー(キウェテル・イジョフォー)が元妻フェリシア(カレン・ギラン)に会うため家を飛び出すと、誰もいない街はチャック(トム・ヒドルストン)の広告で埋め尽くされていた、無事に出会えたマーティーとフェリシアが星々を眺めながら終末の到来を感じ、手を握り合っていると、場面は一転して広告の人物・チャックの視点に切り替わり、彼の人生をさかのぼる物語が美しい映像で紡がれていくが・・・

 

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感想

  • 原作者のスティーヴン・キングは1947年、アメリカ、メイン州ポートランド生まれの大作家、『スタンド・バイ・ミー』『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』『IT』など、映像化されて大ヒットを記録した作品も多く、世界で最も成功した作家の一人と言われている人だ、私も『ショーシャンクの空に』は大好きな映画で何度見直しても感動を与えてくれる作品だと思っているが、今回の映画は理解不能だった、ストーリーが複雑すぎてよくわからなかった、最初の世紀末の世界の姿とチャックが若い時から死ぬ直前に至るまでのストーリーがどのようにつながっているのかさっぱり分からなかった、スティーヴン・キングの映画はかつてこんなに複雑なものはなかったのではないか
  • この点をAIに質問すると、冒頭の世紀末のシーンは実はチャックの人生の終末をイメージしたものだとのこと、彼の早死にを知ったうえで彼の今までの人生を時間軸を逆にして辿るという意図であるそうだ、「難しすぎるぜ!」
  • その冒頭の世紀末の自然災害と関連するネットの不通の映像の際、「日本でもまた原発が水没した、政府は大丈夫だと言っているが嘘だ」というセリフが流れる、一度悪いイメージが付くとそれを払拭するのは大変だと思った
  • 映画の中で死が近づいているチャックが街を歩いているときに、黒人少女がドラムをたたいているのに遭遇し、そのドラムのリズムに乗って踊りだす、そうするとそこに失恋したばかりの若い女性(Annalise Basso、27才)がいて、チャックの踊りを見て自分も踊りだし、二人のダンスの共演となる、そのダンスがすごくいかしていた、それもそのはず、このダンスの振付をしたのが『ラ・ラ・ランド』(2016)の映画史に残るダンスシーンの振付を手掛けたマンディ・ムーアだからだ、このダンスは確かに良かった

理解が難しい映画だった

(承前)

 

 

「英仏はいかに離間されたか」について

  • 1939年9月の開戦当初から、ドイツの宣伝目標は主として、英仏離間に向けられていた、戦線膠着の8か月間、ドイツの宣伝戦は驚くべき巧妙さと執拗さをもってこの目的を追求したのである
  • 1940年6月には、ドイツのこの宣伝は英仏二国の離間に成功したばかりでなく、この同盟国を相互に反目せしめるに至ったのである、なぜかくも完全にこの宣伝は成功したのであろうか
  • 理由の第一に、ドイツの宣伝は、多くのフランス人にかつての偏見を蘇らせ増大したという事実がある、英国は遥か昔、フランスにとっては敵国であった、フランスには昔から絶えず嫌英論者いて、そのあるものは職業的でさえあった
  • 英国の大学教授は、戦争は野蛮時代の遺物で間もなく死滅するだろう、と青年たちに教えたが、正義を守るために武力が用いられねば、不正義が勝利を得るだろう、とは決して教えなかった
  • 英国は国際連盟というものに過大な重要性を与えて、半ば真面目な理想主義と、半ば国際連盟というものが、お説教の一斉射撃で大砲を圧倒するだろうという誤れる考えとによって動かされていたのだ、この思想の混乱、この信じがたい自己信頼、この現実直視の拒否は、当然見通し得られたはずの結果を生んだ、これが第二の要素となった
  • 英国が宣戦布告後、機敏に行動して、急速に新しい師団をいくらかでも編成したならフランスの世論も安心しただろうが、英国人は性格的に、また、主義としてスローモーションの国民であった
  • 英国は仏軍が無敵であり得なかったことを突如として知らされて、彼らの島も決して安全ではあり得まいと悟り、7月には自国を侵略者から守るために100万の軍隊を持った

(コメント)

ドイツは英仏離間を工作したが、現代の我が国に対する周辺国家による最大の工作目標は「日米離間」である、日本人がアメリカに悪感情を抱くように利権を与えた組織などを通じて反米の世論工作をしている、例えば沖縄の基地問題や反トランプ報道だ

 

日本にとって最大の外交目標は「米中離間」である、この両大国が常に覇権を争って対立するよう画策すべきである、次に「南北朝鮮現状維持」である、朝鮮半島が1つの国になれば強大な反日国家となるし、隣国は小さい方が良い、また、「中韓離間」も場合によっては有効な外交目標となってきたでしょう、こういうシビアーな現実論がわからないのが新聞やテレビである、彼らは「日中友好」は言うが「日米友好」は言わない、お里が知れるというものだ

 

国連を過大視するのは今の日本も同じである、他国を非難するために国連を利用し、自国の政策を変えさせるため国連を使おうとするのが諸外国であり、日本もそうだ、日本はさらに一部の左翼弁護士が自国政府を責めるために誤解に充ちた勧告書を出すよう画策している、国連とは実にいかがわしいところがある組織になっている、トランプが国連批判するのももっともだ、国連や国際法、国際機関なるものを過度に信じては国を誤るでしょう、その実例を本書が示している

 

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「英仏はいかに離間されたか」について

  • フランスの共産主義一派が内閣に強いた権力による個人の財産への侵入はフランス国民の不快の感情を起こさせ、一般民衆の中に不平部隊とでも称すべきものが生じて、この連中は自分ではそうとは知らずに、外国の宣伝に対して無意識的支持を与えていたわけです
  • 1914年の大戦には敵の宣伝というものはなかったが、今度の大戦では、宣伝は数年前から怖ろしいほど巧妙に働いていた
  • フランス、イギリス、アメリカの世論は宣伝により驚くほど首尾一貫とした濃密さで、誤られ或いは誤導されていたんです
  • 不幸にして、フランスの政界首脳者たちは、世論を指導するというよりは、世論に迎合するように習慣づけられていた
  • すべての行動の時間表を作る人物がフランスにはいなかった、ドイツにはヒトラーがいた
  • 時間こそが重要な要素です、ヒトラーの最大の強みは機敏であること、英国は強大なる権力を政府に与えるという法案を、英国の議会はたった数分間で議決してしまった
  • 多くの職業的政治家は法律家出身で、事件を詳論する方法は知っていた、実際に行動する方法を知らない
  • 18世紀に人々は理性こそ全能であり、知性より、社会を再組織することができると信じていた、この見解は人間性が余りにも楽天的であるということを示しています、20世紀の人々は力を賛美した
  • 自由思想とは、それが決して政治家が己の行動に先立って、世論の意向を探り、世論をさながら神宣のように考慮せねばならぬという意味ではありますまい
  • 救済策は、強くなること、敏捷に行動すること、世論を指導すること、国の統一を保つこと、外国の政治の影響から世論を守ること、非合法暴力は直接的かつ厳重に処罰すべきである、祖国の統一を攪乱しようとする思想から青年を守ること、治めるものは高潔なる生活をすること、汝の本来の思想と生活方法を情熱的に信ずること

(コメント)

現代日本では、左派新聞や野党、学者が日本の防衛力増強に反対しているが、わが国周辺の覇権主義国家に援軍しているようなものだ

 

また、慰安婦問題や教科書問題のように左派新聞が外国政府に日本攻撃の誤った材料を提供している

 

政治家は国民の訴えによく耳を傾けることは必要でしょうが、新聞の騒ぐことに影響される必要はないでしょう、ところがそれができず新聞に大騒ぎされることを恐れているから情けない、政治家がしっかり勉強していれば新聞の騒ぐことの大部分は黙らせることができるはずである

 

最近では、隣国によってネットによる日本人洗脳工作が組織的行われている、例えば、高市首相に対する軍国主義のレッテル貼り、愛子天皇待望論、秋篠宮家への中傷などの投稿が某国発のアドレスから大量に投稿されていることに注意すべきでしょう、新聞やワイドショーがこういった洗脳工作問題を取り上げない理由も考える必要があるでしょう

 

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巻末解説(中西輝政)

  • 第二次大戦でフランスが戦勝国になっているのはおかしな話である、実際はアメリカやイギリスに頼った「名ばかり戦勝国」である、それが国連の常任理事国になっている
  • 日米開戦前の1年余りの間、フランスの運命と日本の運命がまるで連結していたという歴史観をもって本書を読むと、たいへん興味深いものがあります、ドイツがわずか6週間でフランス全土を席巻し、ドイツが世界の盟主になると誰もが考えた、それからわずか3ヵ月後の1940年9月、「バスに乗り遅れるな」という合言葉に促されて、日独伊三国同盟の調印に踏み切るわけです
  • 第一次大戦でフランスは150万人のフランス兵士が命を落としたが、得た戦勝の意味はほとんどなく、むしろ国力を疲弊させただけとなった結果、国中に強い反戦平和思想が充満することになった
  • そして第一次大戦末期の1917年に怒ったロシア革命の影響が流入し、学生や知識人たちはマルクス主義に殺到した
  • この反戦平和主義と社会主義革命思想によって国内の知識人、労働者、学生たちが過激な左翼思想に染まった
  • ここからドイツへの宥和政策が生まれた、第一次大戦後、ドイツのみが着々と侵略戦争の準備をし、それを実行に移していたのに、ドイツはやがておとなしい民主主義国家になるという希望的観測にしがみついた
  • そして、創設された国連が戦争を地上から一掃してくれる、国連強化により戦争は起りえない時代が来るとの誤った思想が広がった
  • この誤った平和主義から学ばなければならないのは、平和至上主義こそが戦争をもたらすということ、社会主義思想は常に外国の利益に奉仕したこと、国連に対する過度の期待である、国連に規約に従った国が軍備拡張に後れを取り、歯向かった国の方が有利な状況になってしまっている
  • さらにもう一つ加えれば、平和を重んじたばかりに、専守防衛的発想がもたらした作戦の誤りがある、攻撃は最大の防御であるとは軍事の常識であるが平和至上主義がこの常識を完全に否定した

(コメント)

中西教授の解説している通り、第一次大戦後のフランスの状況は第二次大戦後から現在に至るまでのわが国の状況と実によく似ている、日本の場合、戦後しばらくの間はそれでよかった、国民は戦争で大きな犠牲を出したし、軍部や官憲による強圧的な統制に辟易していたので、「もう戦争はこりごりだ」と考えるのも当然である

 

しかし、戦後80年経過する間に日本を取り巻く安全保障環境は激変し、日本が他国と戦争を起こすのではなく、日本の隣国や周辺国がかつてのドイツのように着々と軍事力を拡大し、日本や台湾に対する軍事的挑発行為を繰り返すようになったのである、多くの国民はこれを脅威に感じているため、国は防衛力増強や同盟国・同志国との連携を強化してきたし、これを多くの国民も支持しているにもかかわらず、反戦平和を絶対視し、隣国の脅威を見ようとせず、話し合いなどの宥和策を主張して政府の対応を批判してきたのが左派新聞や左翼学者、左派政党だ、左派の言う通りにすればフランスと同じ運命になるでしょう

 

さて、本書を読もうと思った理由の一つは、なぜフランスはドイツにいとも簡単にパリを占領されたのかだが、その政治・軍事面での原因はわかったけど、フランス国民の精神面での考えはわからなかった

 

(完)

アンドレ・モーロワ著「フランス敗れたり」(ウェッジ、高野彌一郎訳、2005年刊)を読んでみた

 

アンドレ・モーロワ(1885-1967)は前大戦において英仏の連絡将校を務めた人で、英仏の政界並びに軍部首脳に多くの知己を有した、戦後は文芸評論家、歴史家となった

 

本書は、第二次大戦の緒戦でフランスがあっけなくドイツ軍に敗れ、国家の崩壊をきした出来事を描き、その背景を考察したものである

 

 

本書の出るほんの2か月前の昭和15年9月に日独伊三国同盟が締結されている、そういった時期にこの本が日本において出版され、3ヵ月後の昭和16年2月には実に200版を重ねる記録的なベストセラーになった事実は今日から見て意味がある、とは巻末解説の中西輝政教授の説明である

 

中西教授の解説から当時の状況を簡単に記しておく

1940年5月10日:百数十万の独軍が独仏国境、ベルギー領内に侵略開始

同年6月18日:パリ陥落、その後4年4か月独軍の占領下におかれる

 

そもそもなぜフランスがいとも簡単にドイツの占領を許したのか、いつも疑問に感じている、その点についてもモーロアの説明があるかもしれないと思って読んだ

 

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それではいつものように、本書を読んで見て参考になったところなどを引用して、自分のコメントがあるものは書いてみた

 

「英仏はなぜ戦争準備ができていなかった」について

  • 1937年当時、ドイツの真の実力をよく知っていた英国大使やベルリン駐在仏大使は、英仏にとって採るべき道は、万事をなげうって全力で再軍備に注ぐか、ドイツとの融和の策を講ずるか、この二つしかないと警告した
  • ドイツの再軍備について、英仏は何の抗議もしていない
  • 英国のインテリ自由主義者は、いかなる代償を払っても平和こそ尊しとなして、一方的な軍縮さえ叫んだ、これが自由主義を自滅せしめる運命のものであったのだ
  • 1938年ミュンヘン会談当時、英仏両国民は戦争に強く反対していた、チェンバレンは祖国を戦禍から、家を爆弾から、愛児を死から、それぞれ救ってくれたというので、フランスの女たちは感謝の手紙を送った
  • フランス市民はドイツが多く戦車、さらに多くの機械化された武器、我々の大砲ではどうにもならぬ戦車を持っているということを知らなかった
  • 1939年9月3日、ドイツが長年計画していた戦争がついに開始され、英仏は何の準備もなしに宣戦布告する羽目に陥った

(コメント)

隣国が着々と軍備を増強して過去の恨みをはらそうと準備していた時、反戦・平和思想に染まって何も準備をしていなかったのがフランスであった、今の日本を取り巻く状況に似ている、日本は平和主義を変えるべきではないが、言葉や憲法だけで平和が維持できるわけではない、この自明の理をわかっていながら反戦平和だけ言っるのが新聞や学者や教師である、隣国の代弁をしていると言われても仕方ないでしょう

 

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「海鮮初期の八か月間を英仏はいかに空費したか」について

  • 史上空前の危機に際し、祖国が過去の失策を清算し、防衛と兵員訓練のために、数週間ないし数か月の余裕しかないというとき、軍当局の不明のゆえに兵士たちは愚劣極まりない戦線生活を送っていたのである
  • モーリス・シュバリエは英仏兵士のために大いに歌った
  • ヒトラーは、彼がかつて言った如く、英仏兵士の抗戦力を徐々に崩壊せしめていた

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「個人的衝突がいかに戦争行為を阻害したか」について

  • 1918年のフランスは、幸いにして、他人に自己の行為を干渉されるような虞のない、一人の立派な指導者を持っていた、クレマンソーである、1939年のフランスはその正反対であった、エドゥアール・ダラディエとポール・レノーは、共に良きフランス人でありながら、戦争の全期間を通じて、政治的勢力の争いを続けたのである、この二人の指導者の不治の憎悪は、確かにフランス敗戦の主要なる原因の一つであった
  • 敗戦の主原因はわれわれが既に知っているように、われわれの準備、軍隊、外交並びに産業の不完全ないし欠陥にある、しかし、政府内部の抗争と、国民の結合統率すべきよき指導者のなかったことは、軍の最後の機会をすらも奪い去ったのである

(コメント)

昭和の政治家、政党もそうだった、政友会と民政党が政争に明け暮れ、野党政友会の犬養毅や鳩山一郎が統帥権干犯問題を持ち出し浜口内閣を攻撃した、このことが軍部暴走の口実を与えるきっかけとなった、今でも政府攻撃のためなら国益に反することでも平気でやるのが野党や左派新聞である、歴史の教訓が全く生かされていない

 

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「ドイツの電撃戦はなぜかくも急速に成功したか」について

  • 仏英軍の一般的配置は、ポーランド戦で明らかにされたような、新しい戦争への要求に適応するものでは決してなかった、軍最高首脳部は、薄いリボンのような戦線を、ダンケルクからマントンの線に配置したのである、これは1914年の再現であり、前大戦ではその線を長期間保持できた、それは敵がこの薄い線を破るための十分なる手段を持っていなかったからである
  • われわれの軍最高首脳部は、この危険に対していかなる守備方策も取っていなかった
  • 無敵ドイツ軍に対する荒唐無稽な造言蜚語が非常な勢いで広まった、退却したいと思っている兵士にとって、これは絶好の言い訳となった、この恐るべき造言蜚語が、敵の機械化兵団の先頭を切って、地ならしをしながら進んだ、これはすべての男と女、子供を動揺させるに十分であった、メッサーシュミットの百倍もスピードがあるこうした造言蜚語があったからこそ、ドイツがわずかあれだけの小部隊で、何の抵抗も受けずに、重要地点を占領することができたのである
  • わずか5千の戦車と1万の飛行機が間に合うように作れなかったばかりに(そんなものは何の苦労もなく作れもしたし、買えもしたはずだったのに)、絶望のどん底に突き落とされた、華やかな文明も遂に終わりにと考えたとは、思うだけでも胸つぶれ狂わしい気持ちにならずにはいられない

(コメント)

これは時代の変化に鈍感だった政治や軍部の問題であろう、日本も戦後、悪役にされ、平和憲法で二度と他国を攻撃できないよう牙を抜かれた、当時は日本が他国から侵略されるなどと誰も考えていなかったので、憲法には日本防衛ことは何も書かれなかった、しかし、「日本が他国を攻撃する」⇒「他国が日本を攻撃する」と状況は180度転換した、大部分の日本人はこの状況変化を理解しているが、この大きな変化に鈍感なのが左翼新聞・テレビ・教師・学者・政治家だ、わが国周辺の覇権主義国家はこれらの組織の弱みにつけ込み、利益を与え、工作員を送り込み、防衛力増強に反対するよう画策していることでしょう

 

(続く)

この日は旅行最終日、那須ちふり湖カントリーでゴルフである、天気は晴れ、気温は25度、午後から雨の予報で雷注意報も出ている、前日よりはひどくないらしいけど、朝早めのスタートを取ったので、晴れているうちにホールアウトしたい

 

先ずは朝食、クラブハウスのレストランで用意されている、前日のチェックイン時に洋食か和食を選択するのだが、洋食を選んでいた

 

 

7時からオープンしているが、我々がレストランに行ったときは他の宿泊客3組は既に食べ始めていた

 

ハムエッグなどのお決まりの洋食メニューだが、おいしく頂いた、珈琲も美味しかった

 

 

レストランからは18番ホールのグリーン周辺が見える良い設計である、気持ちも高ぶってくる

 

 

その後、部屋に戻り、支度をしてホテルをチェックアウトし、ゴルフコースにチェックイン、ロッカーで靴を履き替えたりしてスタートの準備をして、午前8時15分くらいにアウトコースからスタートした、前に1組が先行してスタートしていた

 

このコースはバックで6582ヤード、ワングリーン、ナビ付リモコンカート、アップダウンは少しだけだがバンカーがけっこう多かった、グリーンは大きく、2段グリーンになっているホールもいくつかあった、グリーンスピードは8.5ftとでていた

 

 

いくつかのホールはレイアウトに特徴があり、印象に残る素晴らしい景色だった、アウトの6番ショート、インの13番ロング、14番ミドルなどは印象的だった

 

 

今回初ラウンドしてみて気になったのはコース整備である、ティーグラウンドとフェアウェイの芝があまり刈ってなく、市民公園の芝生広場のような刈り具合だったところが多かったのはどういうわけだろうか、鹿島建設グループのコースでこれはいただけないと思った

 

 

そして、この日のラウンドでは前の組のプレーが遅く、毎ホール待たされ、ハーフ2時間20分かかった、初心者の若者がいないのにこの時間はいただけない

 

 

この日の後半、14番ホールのティーグラウンドでのこと、雲行きを見ようと空を見上げると太陽の周りに大きな虹のような輪ができていてびっくりした、そこに飛行機が何回か煙を出して突き抜けるように飛んでいたのが印象的だった

 

 

調べてみると、これは「ハロ(日暈・ひがさ)」と呼ばれる大気光学現象で、上空の高い所に太陽が透けて見えるくらいの薄い雲(巻層雲など)が広がった際、太陽の光が雲の中にある氷の粒(氷晶)を通過・屈折する際にプリズムのような働きをして現れる光の輪である、縁起が良いのか不吉なのか?

 

雷や雨を心配したけど、13時過ぎには雨に降られることもなく無事ラウンドを終了できた、ラウンド後は温泉のお風呂に入り、ゴルフ代と宿泊代の清算をして、コースをあとにした

 

ゴルフゴルフゴルフゴルフゴルフ

 

さて、コースを出たのは1時半過ぎ、このまま帰るには時間が早すぎるので、1か所寄って帰ろうと思い、那須方面に車で30分くらい戻ったところにある「那須・芦野 石の美術館」に寄ってみた、那須芦野地区は芦野石の産地である

 

 

この石の美術館の始まりは、大正から昭和初期に建てられた農協の米蔵(石蔵)、1970年代以降は放置されたままになっていたが、この古い蔵と芦野石を景観や街づくりのために活すプロジェクトがスタートし、レストランやショールームにするのかいろんな案が出たが、設計を依頼した隈研吾氏の提案で石の美術館になった、建築はいろいろ大変だったけど、4年かけて2000年9月に完成、2001年1月に開館した

 

 

美術館はそれほど広くない敷地に7つの石造りの建物が配置されており、それらとは別にトイレがあり、トイレも石の作品となっている

 

訪問した時は、画家のMOiKA氏の個展【星と命と】が開催されており、MOiKA氏の作品が各部屋に効果的に展示されていた

 

 

ガイドのパンフレットに示された地図と説明に従って、番号順に観て回った、観ている途中で雨が降ってきた

 

「エントランス&カフェ」

 

「石明りの部屋」

 

「石蔵茶室」

 

「石のラウンジ」

 

「石蔵ギャラリー」

 

「石と水のギャラリー」

 

非常にユニークだった、見終わった後、受付に戻り、せっかくなのでカフェで珈琲をたのみ、鑑賞の疲れを癒した

 

 

石をテーマにした建物として昨年訪問した「石の教会 内村鑑三記念堂」があったのを思い出した

 

 

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石の美術館を見物して、今回の那須旅行のプランはすべて終了した、時間は午後3時過ぎ、日が沈むまではまだまだ時間がある、来る時とは違い、高速に乗らずにのんびりと下の道を使って谷和原インターまで行き、そこから高速に乗って帰ることにした、全部高速を使えば早いのであるが、単調なので眠くなる、それより田舎の空いている道を走り、景色を楽しむのが好きだ

 

ということで、2時間半くらいかけて谷和原インターまで戻り、インター付近のレストランで夕食にし、その後帰宅した

 

(終)

この日は3日目、天気は午前中晴れで気温は23度くらい、午後から雷を伴う雨になり気温も急激に下がった

 

 

朝食は昨日ペニーレインで買ったパンをホテルの部屋で食べて済ませた

 

ナイフとフォークナイフとフォークナイフとフォークナイフとフォークナイフとフォーク

 

この日の予定は一日中那須観光、ホテルを8時過ぎに出発、最初の目的地は道の駅「明治の森・黒磯」、8時半からオープンしている

 

ここは道の駅だけでなく、お花畑「ハンナガーデン」や芝生広場、旧青木家那須別邸がある

 

 

現地に到着してまず、ハンナガーデンと芝生広場を歩いてみた、花が植えてあるのにハナガーデンではなくハンナガーデンとは? 今回は菜の花が植えてあったがもうほとんど枯れていた、天気が良かったのでゆっくりと散歩できた

 

 

その後道の駅に、ここは2024年にリニューアルした、外観、内装とも洒落た感じの建物になっていた

 

 

道の駅「明治の森・黒磯」がある青木地区は特に酪農が盛んな地域、乳製品やそこから生まれる加工品を多く販売していた

 

 

ここでは那須定番のお土産「御用邸の月」を買った

 

 

次に旧青木家那須別邸に行ってみた、旧青⽊家那須別邸は長州出身でドイツ公使や外務⼤⾂等を務め、青木地区に⻘⽊農場を開設した⻘⽊周蔵(1844-1914)の那須別邸として明治21年(1888)に建築された、設計者はドイツで建築学を学び、七⼗七銀⾏本店や台湾鉄道ホテル等の設計をした松ヶ崎萬⻑(つむなが)、平成元年(1989)に栃⽊県に寄贈され、平成10年3⽉に元の位置から南東側約50メートルに移転されての復元・改修を経て、道の駅「明治の森・⿊磯」の⼀施設として⼀般開放されたもの、平成11年(1999)12⽉に国の重要⽂化財に指定された

 

 

那須地域の開拓には青木の他にも山縣有朋、松方正義、大山巌、乃木希典らの明治の元勲たちも行い、それぞれの別邸がこの地域にあるそうだ

 

 

 

受付でチケットを買って、順番に見て回った、明治時代に建てられた洋風建築の家らしい高い天井が印象的だった、邸内には青木周蔵の年表や業績、特にこの地区の開拓に貢献したことなどが説明されていた

 

 

邸内にはグランドピアノがあり、これは周蔵の孫の青木重雄氏の夫人でピアニストとしても活躍した青木和子さんがドイツに留学していた際、現地で購入したもの

 

 

青木周蔵はドイツ貴族の娘エリザベート・フォン・ラーデと結婚し、2人の間の一人娘ハンナ(花子)はドイツ貴族に嫁いだ、ハンナガーデンというのはこのハンナ(花子)に因んででつけられた名称なのだろう、なるほどだ

 

 

この付近には青木という名がついた地名、交差点、神社、斎場、小学校などがあったが、⻘⽊周蔵に因んでつけたのでしょうね、特に小学校は明治37年に青木周蔵が農場の入植者の子弟教育のために創立したものだ、すごいものだ

 

 

帰京後、青木周蔵のこんな本があるのに偶然気づいた

 

 

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さて、このあとはすぐ近くのカフェDAILY COFFEE STOREに行ってみた、店のインスタを見ると「日常に"小さな非日常"をひとりでもゆっくり過ごせる14席のカフェ」とある、オペレーションは若い人たちがやっているようだ、こういうコンセプトのカフェが最近増えているように感じる、良いことだと思う

 

 

外から大きな窓を通して内部の様子もよくわかるが、店内に入ってみると非常に凝った内装だった、若い人のセンスの良さを感じる、シンプルだけど洒落ている、白を基調としたデザインが斬新な感じを出している、照明にも工夫が見られる

 

 

珈琲とドーナッツをたのんだ、駐車場に停まっている車のナンバーを見ると地元の人の方が多い、観光客目当てのカフェと言うのではなく、地元に愛される店を目指しているのだろうなと思った

 

 

珈琲は苦め、ドーナッツの甘さとよくマッチしていた

 

最近、ゴルフの帰りに寄る地方のカフェなどに若い人たちが多く従事しているのを見る、従来地方には仕事がなく、しきたりがうるさく、干渉が多いため、若者は都会に出て行ったけど、人手不足の解消のために、意欲のある若者がやる新しいビジネスの補助をして若者を呼び寄せているのでしょう、良いことだと思う、外国人を入れる前に日本人の若者にもっとチャンスを与えれば、彼らの創意工夫で地方が活性化するでしょう、地方の年寄りには「口は出さず、金を出してくれ、若者にまかせろ」と言いたい

 

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さて、この次は車で30分くらい走って黒磯駅前にある「那須塩原市図書館 みるる」に行ってみた、この図書館がたいへんユニークなものだから一度見たいと思った

 

 

隣の市営駐車場に車を停めて中に入る、案内係の人に写真撮影がOKか聞くと、利用者がはっきりと識別できなければOKとのこと

 

この図書館は、黒磯の地域活性化を目指した都市再生整備計画事業の一環として建設されたもの、図書館を中心にホール・ギャラリー・カフェなどの機能を持つ市民のための交流拠点となっている

 

 

設計はコンペで募集し、選ばれたのが偶然、那須塩原市出身の建築家 伊藤麻理さんだった、2020年の3月に完成し、同年9月にオープンした

 

中に入ってみるとデザインがたいへんユニークで、実に広々した空間となっており、そこに一定の分類で本棚が設置されている、木を存分に使った暖かみのある雰囲気、外光を多く取り入れ、開放感も感じる、ゆっくり読む椅子や机、スペースも十分ある

 

 

カフェもあるので、珈琲などを飲みながら閲覧できるのは素晴らしい、今まで欧州の図書館をいくつか見てきたけど、ここは欧州とは違った日本独特の雰囲気があり、素晴らしい

 

何となく書店のような感じもする、これが現代のトレンドなのでしょう、Kindleなどでは決して味わえない紙の本ならではの楽しさを存分に味わえる場所だと思った

 

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さあ、ここで午前中は終わり、車で那須中心部に戻ろうと那珂川沿いの那須街道を走ると、しばらく松林が続き、これが実に素晴らしい景色であった

 

中心部に戻ると11時ちょっとすぎ、早めのランチを取ろうと11時開店の「茶屋 卯三郎」に行くと既に駐車場は満車、開店直後なのにもう待ち行列ができている、すぐに諦め、那須街道沿いの「那須高原バル」という店に入ってみた、こちらは行列どころか最初に入ったのが我々だった

 

ここはステーキやスパゲッティ、ピザ、とんかつなどを食べさせる店で、嫁さんはハンバーグ定食を私はカルボナーラをたのんだ

 

 

料理が出てくるまでにしばらくかかったが、提供された料理を食べてみると実に美味しかった、時間がかかったのは手抜きをしない作り方をしているからだと思った、ハンバーグは肉汁が充満してパンパンに膨れていたし、私のカルボナーラも麺は生パスタで、味は玉子とニンニクがよく効いていて美味しいものだった

 

 

偶然で選んだ店だけど、良い店だった、ネットの評判のみで選んでいてはダメだと思った

 

店にいる間に空模様が怪しくなり、雨が降ってきた、大きな雷の音も聞こえて、予報通り天気が崩れてきた、初日に茶臼岳や殺生岩、八幡つつじ南群落などに行くことにしたのは正解だったし、この日がゴルフでなかったのはラッキーだ

 

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次は、同じ街道沿いの「お菓子の城 那須ハートランド」に立ち寄った、こちらは人気のお菓子「御用邸の月」などを作っている工場兼販売店だ、店内から製造工程が見学でき、2階には大きなレストランもある、ツアーの団体客も多く来る店のようだ

 

 

お土産を買いたい人には良い店だと思った、店内には販売しているお菓子の味見ができるようになっているのがうれしい、我々は既に「御用邸の月」は購入済みなので、見ただけで終わった

 

傘傘傘傘傘

 

さて、次は、雨が降っていても楽しめる屋内の「田川啓二美術館」に行くことにした、車で10分くらいで着いた

 

 

田川啓二氏は東京都出身の実業家、オートクチュールビーズ刺繍デザイナー、株式会社チリア代表取締役、公益財団法人黒栁徹子記念財団 代表理事、黒柳徹子のマネージャー、文化学園大学特任教授、全然知らなかった

 

 

田川啓二美術館は2023年4月開館、日本には刺繍に特化した美術館が無いに等しいことから、自ら私設美術館を作ることを決意し、中古物件を買い取り、改修の上、オープンしたそうだ

 

 

2002年2月に黒柳徹子の「徹子の部屋」に出演したことをきっかけに意気投合し、その後、黒柳から衣装のオーダーメイドを受けて制作したことから懇意になる、他の衣装のコーディネートやプロデュース、管理も担っている、2016年頃より黒柳の個人事務所のマネジメント業務を兼任しているが、あくまで副業、とウィキペディアには書いてある

 

 

館内は2階建てだが、それほど広くはない、写真撮影はOK、撮影してどんどんSNSなどで宣伝してほしいとなっていた、私も芸術家や芸術作品は、肖像権などと言わずに写真撮影OKにして、どんどんSNSで無料で宣伝してもらった方が良いと思う

 

展示されているのは田川氏の刺繍作品が中心だけど、陶磁器など他の芸術家の作品もあった

 

 

作品の中で印象に残ったのは刺繍で作ったモネやゴッホなどの有名画家の絵画の模写である、これには驚いた、実に精巧にできていた

 

プリンプリンプリンプリンプリン

 

さて、15時くらいになったので、カフェに入ってお茶にしようと思った、事前に調べた那須の人気カフェの一つ、「Nasu Shozo Café」に行ってみた、まだ雨が降っている、駐車場に行くとほぼ満車、「ゴールデンウィーク明けの平日なのに行列かよ」と思ったけど、広い駐車場だったので停めるスペースが少し残っていたのは良かった

 

 

中に入ると直ぐに座れた、入口近くではスコーンなどの販売もやっていた

 

ブレンドコーヒーを注文して、店内をゆっくり見渡す、本箱があり旅行の本などが置いてある、壁には絵画が掛けてある、窓の外には那須の森が見えて、緑がまぶしい、たいへんいい雰囲気だ、人気があるのもわかる

 

 

ケーキも食べたかったけど、少し食べ過ぎ状態になっているので我慢したが、こちらの珈琲はケーキと一緒に飲むことを前提に少し苦みが強くなっているようだ、店員さんたちのサービスは良かった

 

 

まわりのお客さんを見ると、いかにも観光客のような人たちが多いように見えた、我々が帰る時には待っている人がいたし、駐車場が空くのを待っている車もいた、平日で良かった

 

きのこきのこきのこきのこきのこ

 

このあと、まだ少し時間があるので「GOOD NEWS NEIGHBORS」に行ってみた、ここは、那須の緑豊かな自然の中に広がる持続可能なまち「GOOD NEWS」の一部

 

 

手掛けているのは、看板商品「バターのいとこ」で有名な株式会社GOOD NEWS、「農業・福祉・観光」においての課題をさまざまなデザインによって解決することを目指して2022年にオープンした

 

「GOOD NEWS NEIGHBORS」は環境に配慮した事業に取り組む店舗が集まったショップエリアであり、アウトドアショップ、ロースタリーカフェから美容室まで、多様な店がある

 

 

傘を持ってくるのを忘れたため、駐車場から店に行く間に濡れてしまい、店にもあまり人が来ていなくて寂しそうだったので、さっと見学して終わりにした

 

車車車車車

 

その後、近くのオシャレな生活雑貨やアパレルも扱う店WhiteNoteに立ち寄った、どんなものが売っているのか興味があった

 

 

店は小さな建屋がポツンと1軒たっている中にあり、店内は広くないが混んでいた、メディアで取り上げられたのだろうか、若い人ばかりであった

 

食器や衣類などの生活用品を売っていた、毎日使う生活道具にこだわり、品ぞろえしている店、一つひとつが手になじむような暖かみを感じさせる品物ばかりだと思ったけど、見学しただけになった

 

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さあ、この日はもう疲れたので、4時前だったけど、もうホテルに行こうと思った、雨も降っていたし、この日停まるホテルは明日ゴルフをする那須ちふり湖カントリー倶楽部併設のホテルである、ここから車で20分くらいだ、早めにチェックインしてゆっくりしたくなった、年だね

 

雨の中、ホテルに到着する、受付はゴルフ場のロビーと同じところ、ゴルフ場も含めて全体としては上品な感じ、このゴルフ場は鹿島建設が運営しているとは現地に行ってから知ったが、来ている客層も鹿島関係の人たちが多いのか、落ち着いた大人の雰囲気があった

 

部屋に入ると、窓からゴルフ場の周りの木々が見えて良い雰囲気、ソファーは一つだけだけど、ベッドは大きく、風呂場も広く、申し分ない

 

 

この日の夕食だけど、ホテルで取ることも可能であったけど、初めてのホテルだから食事のレベルがわからなかったので、外で食べることにした、Googleで探して、ホテルエピナール那須に入っている「和匠ダイニング 菜す乃」にした、行ってみると、すぐに座れたのはラッキーだった

 

 

この店は地元の食材を使った和食の店で、コース料理もあるけど、アラカルトで注文もできるので、メニューの中から嫁さんはとんかつを、私は那須三元豚炭火焼丼をたのんだ

 

 

いずれも美味しかった

 

このホテルエピナールはずいぶん大きなホテルで家族連れなどで賑わっていた、プールも大きなレストランもあり、土産物も売っており、団体や家族旅行で利用するにはいいホテルだと思った、駐車場にもけっこう他県ナンバーの車が停まっていた

 

食後はゴルフ場のホテルに帰り、大浴場でお風呂に入って疲れを癒した、ここのお風呂も温泉だった

 

3日目はこれで終わり

この日は2日目、天気は晴れ、気温は23度くらい、前日の夕方、グランドエクシブ那須白河に入ったその翌朝、朝食会場はゴルフ場との共同レストラン、朝7時からなので7時10分くらいに行ってみたら混雑していて驚いた、ゴルフウェアを着た人ばかり

 

レストランからコースが見渡せるうまい設計、マスター室の前で大きなコンペのメンバーが集合しているのが見えた

 

 

奥の方の座席が空いていたので、そこに腰かける、食事はバイキング形式だからいろいろ好きなものを少しずつ取って食べた、味はおいしかったけど、パンがほとんどなかったこととコーヒーが苦みが強かった

 

やしの木やしの木やしの木やしの木やしの木

 

この後、ホテルのチェックアウトをし、ゴルフ場受付でチェックイン、と言っても同じ建物内だけど、ロッカーに荷物を入れ「いざ、コースに」

 

このゴルフ場では、今月の28日から4日間、女子ゴルフのツアー「リゾートトラストレディース」が開催されると宣伝が出ていた、コースはイーストとサウスを使うようだ、このゴルフ場では過去に何回かトーナメント開催実績がある、設計はR・T・ジョーンズ・シニア

 

 

この日はウエストコースからイーストコースをラウンドした、カートはナビ付リモコンカート、けっこうスピードが出るカートだった、コースはベントのワングリーン、フェアウェイもベント芝、ところどこを狭く感じるホールがあり、フェアウェイには傾斜があるところが多かった、グリーン周りには大きなバンカーが多かったが砂は柔らかい良い状態だった

 

 

グリーンの面積は広く、2段グリーンも多かった、グリーンスピードは9.5から10ftくらいではないか、池も多かった、アップダウンもけっこうあった、フロントティーだと6100ヤードくらいだけど、こういった要因で難しくしているのだろうなと思った、ティーマークはほぼスコアカード通りの場所に置いてあった

 

 

さて、プレーの進行であるが、午前も午後も2時間15分から20分かかった、コンペが入っていることも考えると仕方ないか、特にスタートの2、3ホールがなぜか詰まっていて、先が思いられたけど、4番ホールくらいから流れが良くなった

 

 

まあまあ楽しめた、来年も来たくなった

 

ラウンド後には大浴場の温泉に入り、その後、会計をして、15時過ぎにゴルフ場をあとにした

 

車車車車車

 

さて、日が長いので、このあと少し観光をしようと思い、那須で人気のベーカリー&カフェ「ペニーレイン那須店」を目指した、ゴルフ場から30分、那須のメインストリート那須街道から脇に入った森の中にある店で、到着して驚いたのは駐車場が3つか4つあったことだ、休日にはそんなに混むのか?

 

 

この日の駐車場はあまり車が停まっていなかったので安心した、店に入るとパン売り場があり、そこで明日の朝食用のパンをいくつか買った

 

そして、奥にカフェがあるので、行ってみた、空いてる席に座って良いとのことで、4人掛けの席に腰かける、英国風のパブかレストランのような雰囲気、店主がビートルズ好きで写真や楽器などビートルズ関係のものがいっぱいあった、もちろん流れている音楽もビートルズだった

 

 

メニューから私はブレンドコーヒー、嫁さんはアイスコーヒー、あとケーキを一つ頼んだ、コーヒーはお替り自由、食事のメニューもあったが営業時間は18時までとなっていた

 

 

外にはテラス席もあり、森のカフェの雰囲気、窓から見える新緑がまぶしい、運ばれてきたコーヒーもケーキもおいしかった

 

 

この店は那須にペンションとして開業し、その後、ベーカリー・カフェ・パティスリーなどに拡大し、栃木県7店舗、茨城千葉東京に3店舗展開しているそうだ

 

見ているとベーカリーには次々とお客さんが来店していた、人気があるのでしょう、ペニーレインというのもビートルズの曲名だ、私も若い時、ビートルズをよく聴いたけど、どちらかと言えばベンチャーズファンであった

 

チューリップチューリップチューリップチューリップチューリップ

 

まだ時間があったので、10分くらいで行ける「八幡つつじ南群落」に行ってみた

 

駐車場はつつじ吊橋の手前にあり、そこから歩いてすぐのところに「つつじ吊橋」があった、歩いて渡るとけっこう怖い、歩くところが木でできている部分が多く、少し木が欠けている部分があるし、鉄網の網目から下が見えるので高所恐怖症の人は渡れないのではないか

 

 

橋の向こう側にわたり、少し歩くと八幡南つつじ群落がある、木製の通り道が整備されており、順路に従って1周歩いてみた

 

 

ちょうど赤いつつじが花を咲かせていたが、まだつぼみの状態のものも少しあった、8分咲きくらいか、けっこう多くのつつじがあったので楽しめた

 

 

つつじはほとんど赤い色で白のつつじはこれからのようだ、東京よりも1か月弱開花が遅いのではないか、こんな満開のつつじを観られて良かった

 

ただ、夕方だったので来ている人はわずか、笹もいっぱい生えており、熊が出てきそうで怖かった

 

ナイフとフォークナイフとフォークナイフとフォークナイフとフォークナイフとフォーク

 

これでこの日の観光は終わり、ホテルに行く前に那須で夕食、那須ではレストランは多いけど夜まで営業している店は少ないようだ、那須街道沿いのお目当てのステーキ店に行ってみたら「本日休業」、仕方ないのでそこまで来るときに見かけた他のステーキ店「聚楽」に入ってみた

 

那須街道沿いの目立つ外観、駐車場にはまだ余裕があったので予約なしでも大丈夫だと思い入ってみたらすぐに座れた

 

メニューを見るとけっこう高めの価格、ステーキだから仕方ないか、私は150グラムのサイコロステーキ、嫁さんはビーフシチューにした

 

店内の壁にはこの店を訪れた有名人の書いた色紙がいっぱい貼ってあった、そして、大きな紙にバナナマンが出るテレビ番組で「那須に来たら何を食べる?」と住民に聞いたらこの店の私が注文したサイコロステーキが美味しいという人が多かった、と書かれていた

 

味は確かに美味しかった

 

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さて、これで本日の予定はすべて終了、車で那須塩原駅近くのビジネスホテルに向かった

 

このホテルは嫁さんが選んだ、ちょっと那須から離れていたのは失敗だったけど、部屋はツインルームでベッドもテレビも大きく、ソファーもあり、まあまあの部屋だと思った

 

 

私は温泉旅館に泊って、お決まりの料理がずらっと出てくるスタイルはあまり好きではなく、シティーホテルに泊まり、食事はホテル外に探しに行くのが好きだ、今回はビジネスホテルなので風呂と洗面所が狭くて使いづらいけど、ゴルフ場の温泉に入ったので問題なかった、トイレは風呂場とは別のドアだったのでその点は良かった

 

無事に2日目が終わった

5月の連休明け、3泊4日で那須に旅行に行ってきた、4日のうち2日はゴルフなので観光は半分くらい

 

もともとこの週は海外旅行に行く予定で、航空券やホテルを手配済みであったが、3月になって中東で戦争が始まったためキャンセルし、国内旅行に変更したのだった

 

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初日の天気は晴れ、気温は23度くらい、午前中用事があったため、出発は昼食後の12時過ぎとなった

 

東北道で那須インターまで走る、那須は来たことがあるけど、だいぶ前なのでほとんど覚えていない、インターで降りたのが午後2時、茶臼岳の那須ロープウェイを目指し、山麓駅まで車を飛ばした、那須インターから40分、インターよりもかなり標高が高く、半袖では寒く感じた

 

ロープウェイは20分に1本、お客さんは10名くらいいた、山頂駅まで標高差293m、5分で到着、ここは標高1684m、8合目くらい、そこの展望台で下界を見渡す

 

そこから歩いて頂上まで登るルートがあり、少し登ってみた、風が強く、気温は11度だが体感温度はもっと低かった

 

10分くらい登ったところにルートの分岐点があり、そこでまた下界を見下ろす、天気が良くて良かった

 

インター付近との気温差は10度あるので真夏でも涼しいそうだ、山はまだ新緑が芽吹いていない冬景色であった

 


ここのロープウェイに係の人が乗っており、行きも帰りも短い時間ではあるがいろんなことを教えてくれた

 

  • 茶臼岳(標高1915m、日本百名山の一つ)は、そのものずばりの山はない、那須岳、朝日岳などいくつかの山をまとめて茶臼岳と呼んでいる、同じような山に赤城山、榛名山がある、ただ帰宅してからウィキで確認すると、「那須岳という山はなく、茶臼岳、朝日岳などの山の総称である」と出た、記憶があいまいだった
  • ゴールデンウィークには強風で3日もロープウェイが運行不可能となった
  • 茶臼岳には硫黄鉱山があったが閉山になった、その後、鉱山から硫黄を下界に運ぶための列車道を登山道にした
  • 16時過ぎの下りの最終ロープウェイを逃すと歩いて2時間半かけて山麓駅まで下山する羽目になるのでくれぐれも送れないでほしい

なかなか愛嬌のあるガイドさんであった

 

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さて、時間的にもう一か所寄れそうだ、来る途中にあった殺生石(さっしょうせき)を見物することにした、山麓駅から車で10分下ったところ、殺生石の駐車場に車を停めた、あまり台数が停められないので休日などはどうするんだろうか?

 

殺生石とは、那須町の湯本温泉付近にある「九尾の狐伝説」で有名な国の名勝に指定された石とその付近一帯、この「九尾の狐伝説」とは、中国やインドで美しい女性に化けて悪事を働いた狐が平安時代に日本に渡来し、美女「玉藻の前」に化けて帝をたぶらかすと、陰陽師に正体を見破られ、逃げた先で化身した毒石となり、源翁和尚が大乗経をあげると3つに割れ、そのうちの一つがここに残ったとされるもの

 

この場所一帯は昔、湯の花の採取も行われていた、今でも硫黄の匂いが充満しており、草木が生えず、賽の河原のような様相となっている

 

一番奥に殺生石があったが、何だかよく確認せずに写真だけ撮った、あとから確認すると、この殺生石が2022年に突然二つに割れてしまって、それがそのままの状態になっているとのこと、慌てて撮った写真を拡大してみたら、確かに大きな殺生石が割れて転がっていた、たたりか?

 

見終わると16時過ぎ、今夜のホテルはグランドエクシブ那須白河、17時半から夕食の予約をしてあるので、観光はここまでとし、ホテルに向かった

 

生ビール生ビール生ビール生ビール生ビール

 

17時前にホテルに到着、チェックインをして部屋でしばらく休んだ、今日は200キロ以上運転した

 

このグランドエクシブ那須白河はリゾートトラスト(東証プライム市場)が運営しているホテルとゴルフ場、2005年オープン、ラグジュアリー路線でロビー、浴場、レストラン、部屋のいずれも高級感がある、開業後20年経過しているがメンテはしっかりとされており、設備が古くなっているなと感じるところはなかった

 

わたしたちの部屋はツインベッドにソファーとデスクがあり、ベッドの大きさも十分、風呂場とトイレは別の部屋になっている、テレビの画面も大きくて見やすい、角部屋で2方向が見える、コースは一部だけ見えた

 

夕食は地下1階の日本料理「花木鳥」、和食のコース料理「地元の食材を気軽に楽しんでいただけるカジュアルコース那須」、これは地元白河名物の白河高原清流豚と阿武隈川メイプルサーモンを取り入れたカジュアルコースであった、カジュアルと言ってもフルコースであった

 

ビールを飲みながら頂いたが、満腹になる量であったし、味も美味しかった、食器も高そうなものばかり使っていた、我々の案内された部屋は全部で10テーブルくらいの広さ、ほぼ満席であった、来ているのはシニア層であった

 

夕食後、大浴場の温泉に入った、この大浴場はゴルフ場のお風呂と共通のものなので、明日のゴルフ後にもう一回入れる

 

無事に初日は終わりました

久しぶりにお気に入りのカフェfrom afarに行ってみようと思った、ゴールデンウィーク中の祭日、午後2時ころに到着した

 

 

場所は東武日光線の東向島、駅から徒歩5分もしない国道6号線沿いのビルの1階にある、ドアを開けて中に入ると、空席があってすぐに座れた、この店は以前は蔵前にあったがビルの老朽化のためこちらに引っ越した、蔵前の「喫茶半月」は同じグループの経営

 

 

ここは、入ってすぐのカウンターで最初に注文をする、珈琲とチーズケーキをたのんだ、1,280円

 

中央の大きなテーブル席の端の方に腰かける、来ているお客さんは若者ばかりだ、カップルが多いが、一人で来ている人もいる

 

 

しばらくして珈琲とケーキが一緒に運ばれてきた、ケーキはけっこう大きいのがうれしい

 

本を読みながら珈琲とケーキをいただく、店内はけっこう広い、道路に面した側はガラス張りなので外光がいっぱい入ってきて、私が座っているあたりまで明るいので本を読みやすい、それより奥はちょっと暗い感じ

 

 

店内は余裕があり、空間も広く、静かな感じがするのが素晴らしい、お客さんを詰め込もうという発想がない、エクスクルーシブな倶楽部の談話室のような雰囲気さえ感じる

 

 

こういった空間で、午後のひと時、ゆっくりと珈琲やケーキをいただきながら読書をするなんて、なんという贅沢であろうか

 

1時間くらい滞在して、店を後にした、入口近くの店内のウェイティング用の椅子にはいつの間にか数名の人が腰かけて席が空くのを待っていた

 

ご馳走様でした

日本橋のコレド室町でランチを食べた後、少し歩いているとどら焼きで有名な「うさぎや」の前を通りがかった、いつもは行列ができているが、この日は2、3人しか並んでいなかったので、久しぶりに何か買ってみようと思った、以前は良く買ったものだ

 

 

狭い店内に並んでいるお菓子を見て、まずどら焼きは外せないとして、もう一つ何か買おうと思った、ショーケースを見てあんこ餅と茜と書いた和菓子を買ってみた、全部で1,010円

 

 

この日はゴルフに行く予定だったけど、朝になって急に嫁さんが熱を出したためキャンセルした、こんな時は甘いものを食べて元気になるのが良いと思った

 

「うさぎや」は上野にもある、そちらも何回か利用したことがあるが、日本橋は「うさぎや上野」からののれん分けのようだ、こういったのれん分けの店は他にもいろいろある、すぐに思いつくのだけでも

 

洋菓子の「風月堂」

豆大福の「岡野栄泉」

名古屋味噌煮込みうどんの「山本屋」

すき焼きの「今半」

 

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さて、日本橋に行くとどうも気になってしようがないのが室町の方から見える建設中の大型ビルだ、室町側から見る空が狭くなった、近くに行ってみたらミッドタウン日本橋と書いてあったので三井不動産のビルのようだ

 

 

景観など全く考えていない経済優先主義もここまでくると醜くないか、第2次大戦のころのロンドンの街が同じような状況で当時の国王がそれに苦言を呈したとどこかに書いてあった

 

ロンドンも日本と同様、今に至ってもその経済第一主義は変わっていない、私が一昨年旅行で行くと、Horizon22とかシャードとかWalkie Talkieとかの高層ビルが乱立していた、やれやれだ

 

 

その後、帰宅して嫁さんと二人でお茶にして、うさぎやで買った和菓子を食べてみた、申し分ない味であった

都心の耳鼻科に行って診察してもらった後、どこかでランチをして帰ろうと思った、どこにしようか迷ったけど、日本橋に行き、コレド1の3階にある「ビストロ石川亭」で洋食を食べようと思った

 

11時開店で、その15分前くらいに到着してしまったので、ビルのなかをぶらぶらして、5分前くらいに3階のレストランフロアに行くと、まだ、誰も来ていない、周囲の店にはもう既に待っているお客さんがいる

 

 

11時になって入店すると、2人掛けのテーブルに案内された、テーブルの上にはランチメニューが置いてあり、前菜とメインの組み合わせで1,680円であった、場所からしても意外と安いなと思った、競争が厳しい場所なのだろうか

 

前菜はベーコンとチーズのキッシュを、メインはキャベツ入りハンバーグ デミグラスソースを選んだ、このハンバーグはこちらの売り物になっている

 

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10分くらい待って前菜が出てきた、焼き立てのパイ生地に包んだチーズ入りクリームにベーコンが入っていて、おいしかった

 

 

メインはそこからさらに10分くらいしてから出てきた、この時間からして調理は仕込みで肉だねまで作っておき、注文があってからフライパンで焼いているのでしょう、一度焼いたものをレンジで温めて出しているのではないことがわかる

 

 

味はまあまあであった、ハンバーグのなかに大きめの玉ねぎのみじん切りが目立った、キャベツはわからなかったが、溶けるまで煮込んだものを肉に混ぜているのだろうか

 

 

付け合わせはホウレンソウを炒めたものとマッシュポテトであった、いずれも美味しかった、特にハンバーグはけっこう大きくて、挽肉を150gは使っているのではないか

 

 

自分でもハンバーグを作るようになったので、レストランで出てくるハンバーグも「だいたいこの店はこういう風に作っているのだろう」と想像できるようになってきた、そして、自分の好みの味は自分で作って出すしかないなとも感じるようになった、それはやはり、肉の味をしっかりと感じられ、かつ、ジューシーなものが良いと思う、この日のハンバーグはそういう意味では自分の好みとはちょっと違ったけど、店によっていろんな味付けや工夫があってよいと思う

 

 

店内は赤い壁をベースにしたインテリアで、これがけっこう高級感もあった、私の後から入ってきた人は女性が多かったのもわかる

 

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11時40分くらいに店を出たけど、レストラン街はそんなに混んでいなかった、前に日本橋高島屋のレストラン街に行ったときも感じたけど、日本橋は昼時でもそんなに混んでいない店が多いような気がする、この辺りはけっこう穴場だなと感じた、これも在宅勤務が増えてきたためだろうか、そうだとしたらレストランも大変だろう

 

ご馳走様でした