障害者って扱いにくいですか?
そりゃ、そうでしょうね。だけど仕方ないですよ。本人にも周りにも正論や理想論で簡単にコントロールできることじゃないですからね。
私は中途視覚障害者で全盲です。なおかつ、病気の後遺症からの万年低血圧と長期入院生活以降のほぼ寝たきり生活からの足の可動域縮小により、思うように動き回れません。
この状態になり5年以上が経ちます。一般的なイメージとして病気や怪我が右肩上がりに回復するものなのに対して、私の場合は未だ体調は日々40〜60%あたりをうろうろしたままです。障害者人生以降に抱えることになった悩みやストレスからのメンタル不調については、正直もっと厄介。自分でなかなかコントロールできないまま何かの大きな波にもまれながら、気づいたら今ここにいる感じです。
幸いこの数ヶ月間は比較的ポジティブでいられていますが、まだまだ自分が当初期待していたような、障害を受け入れ、障害者として真っさらな気持ちで人生を再スタートさせる、なんてのには程遠いのが現実です。ぶっちゃけ、目の前の一日一日をギブアップすることなくなんとかやり過ごすだけで精一杯です。
これは私の偽らざる本音ですが、健常者にはどう映るのでしょう?やはり、早く障害を受け入れ自分がすべきことをせよ!……とか言われちゃうんですかね?
しかしそこには、こうなって初めて気づくさまざまなバリアがあるんですよ。身体の不具合による直接的ハンデの他にもね。
それが、こうしたい、こうありたい、というのを阻む要因の数々。時には自分の能力不足であり、気持ちの持ち方であり、そして環境的要因なんです。これをオールクリアした時が、=(イコール)障害を受け入れた、ことになるのかな?
ただ、頭で理屈で考え導き出せるアイデアで解決できるほど簡単ではないんですよ。模範解答や特効薬はない。自分ですら解決方法もよく分からないし、だれも教えてはくれない。どのくらい時間がかかるのかも分からない。そんな事情をうまく説明して相手に理解させることも難しい。しかもそれらが交錯することでどんどん私も周囲も泥沼にはまって不幸になってしまう。よくあることです。
最悪な場合は、どうせオレの気持ちなんか誰にも分からないんだから黙っちゃおう、引きこもった方が楽だ、というパターンですね。
例えば、以前こんなことがありました。
パーティーですごい出し物があるから、と言われて参加したら、それがマジックやバルーンアートだったことがあります。世間では普通によくあることです。
相手は、全盲の私をただ何となく誘う場合もあれば、目が不自由でも耳で楽しめるだろうと想像して誘う場合もあります。どちらも悪気など全くありません。しかし、これでは正直いろいろとキツい。トータルするとマイナスな出来事に終わりがちです。
当の本人にしたら、なんじゃこりゃーーーーー!(©️松田優作)ですよ!ギャラリーの歓声、か🎵チャラララララ〜ン🎵というBGMか風船のバキバキ軋む音しか聞こえないし、何が何だか全くわからないっつーの。
数年前まではこういうことがあるたびに相手と揉めましたね。だって、これが原因で自分が辛くて仕方ないんですから。この怒りを表に出さなければ自分がおかしくなって潰れてしまう。そんなのは耐えられない!その一心からです。
ここで大人なら、何も言わずに次回以降は参加しないとか、
「オレ、見えないからよくわからなかったよ」
「悪い悪い、次は気をつけるよ」
なんて言葉を平和に交わして忘れてしまいたいところ。
ところが、ここで面倒臭いのが私。
(病気する前ならオレも楽しめたはずなのに!なんでオレだけが!超ムカつく!)と過去と比較して自分が情けなく思えたり、
(なんでオレがこんな目に遭ってるのに他の連中は呑気に笑っていやがるんだ!めっさムカつく!)と他人と比較し怒りを向けたり、
(ああ、やっぱり健常者には障害者の気持ちは想像できないんだなぁ!てか、オレのことバカにしてんのか?マンモスかなピー)と投げやりになったり。
一つ一つは小さなことだし、我慢もできますが、これらは確実に蓄積します。それが容量オーバーになると溜まりに溜まった不満が溢れ、周囲を汚す……そんなイメージかなあ。残念ながらこの部分への対処にはまだまだ苦戦します。
そう考えると、障害者になったことで私の器は確実に小さくなった。下品な言い方をするなら、ケツの穴が小さくなったのでしょう。でも、これはある意味障害の副作用。病気なんだよね、きっと。
だけど、病気だと思ってくれる人って、まずいないよなあ。
※次回に続く
©️2024 Koichiro