『原作から大きく改変された映画』1 | アンパンマン先生の映画講座

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映画の面白さやストーリーの素晴らしさを伝えるため、感想はネタバレで、あらすじは映画を見ながらメモを取って、できるだけ正確に詳しく書いているつもりです。たまに趣味のAKB48のコンサートや握手会なども載せます。どうかご覧ください。

 ドラマ「セクシー田中さん」の原作者である漫画家、芦原妃名子さんの急死によって、原作の改変問題がクローズアップされている。これはドラマだけではなく、映画でも同様である。そこで、原作から大幅に変わった映画を紹介する。

 

1.『惑星ソラリス』

原作『ソラリス』(旧題『ソラリスの陽のもとに』)1961年、作者:スタニスワフ・レム

 軌道を自分で調整し、有機的な活動を見せる海で覆われた惑星ソラリスを観測する、惑星上空に浮かぶソラリス・ステーションにクリス・ケルビンが到着する。だれも迎えに来ないし、ステーション内は雑然としている。実は、禁止されている海へのⅩ線照射が行われた後、研究員達は、ステーションに存在しないはずの人間が出現するという奇妙な現象により精神的に苛まれ、自殺した者もいた。クリスの居室にも、何年も前に自殺した恋人ハリーが現れる。困惑したクリスはハリーをロケットで打ち上げるが、クリスが眠りにつくと、また別のハリーが出現する。この人間たちは、研究員の記憶を元に海が生み出した複製だった。「客」と呼ぶそれは、一見人間のようだが、怪我をしても直ぐに再生するなど人間としてはありえない振る舞いもする。そのうちハリーは、自分が複製だと気づき、液体酸素を飲んで自殺するが、暫くすると息を取り戻す。

 クリスはハリーの死への自責の念に苦しみながらも、ハリーに好意を持つようになる。クリスの脳波を電場で海に投射しても、反応はない。サルトリウスは「客」を物理的に消滅させる方法を考案する。ハリーは自分が複製で、クリスに苦痛を与えていることを知り、サルトリウスの装置で消滅させられることを自ら選ぶ。海は「客」を送り込むことで人類に苦痛を与えようとしていたのか、好意を示そうとしていたのか、実験しようとしていたのか。クリスはハリーの喪失を乗り越え、ソラリスに残ることを選ぶ。

 惑星の海全体が知的生命体であると言うのが驚異的である。海は研究員の記憶の中で、最も強い印象がある人物の複製をつくったと思われる。自殺した恋人との意外な再会があり、クリスは悩む。しかし、海の目的は全く分からない。こちらから電波で呼びかけても海は反応せず、人間を無視しているようにも見える。それとも人間に理解を超越した存在なのだろうか。SF小説の名作である

 なお、詳しいあらすじは私のブログの記事「『惑星ソラリス』原作のスタニスラフ・レム『ソラリス』の詳しいあらすじと、映画と原作の違い」を見てほしい。

 

 

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映画『惑星ソラリス』1972年、監督:アンドレイ・タルコフスキー、主演:ドナタス・バニオニス

 冒頭は原作にない、地球のクリス・ケルビンが父母と暮らす故郷の自然や家の様子、父の友人のバートンが若き日にソラリスで体験した話が描かれる。クリスが家からロケットの発射場に行く途中の道路として、東京の首都高速道路が長々と映される。ソラリス・ステーションでのクリスの夢にも、原作にはない母親と恋人ハリーが出てくる。ステーションが一時的に無重力状態になり、クリスと複製のハリーが図書室の中を漂う場面は、バッハの音楽の効果もあり、映画史上の残る美しい無重力シーンになっている。液体酸素を飲んで飲んで自殺したハリーが、痙攣しながら生き返る場面は生々しい。ハリーは消滅し、最後にクリスはステーションに残る。冒頭のクリスの故郷の自然が映り、クリスが自宅で父親と再会したと思うと、そこはソラリスの海に誕生した島だった。

 詳しくは私のブログの記事「『惑星ソラリス』ネタバレの詳しいあらすじ」及び「『惑星ソラリス』ネタバレの感想 人間に理解できない物とは?人間とは?」を見てほしい。

 原作では、惑星ソラリスの表面全体を覆う「海」は知性を持つと思われるが、人類は志疎通を試みようと努めるが、人類とのコミュニケーションを堅く拒んでいるようにも見える。ケビンはこれまでの研究を読み、探査もするが、「海」は謎の存在のままである。

 ところがタルコフスキーは、研究員が「海」の謎の行動に翻弄されて混乱する様に焦点を当てている様である。主人公クリスに関しては、復活したハリーとの恋愛関係、さらにクリスと両親、特に父親との関係に焦点を当てているようである。そのため、原作とは全く異なる印象を持つ。当然作者のレムはこの原作の大幅な変更に不満を持っている。以下に「ウィキペディア」の文章を引用する。

 「このために、レムとタルコフスキーとの間で大喧嘩が起きたことは有名。もともとレムは舌鋒鋭く他作家に対しても非寛容な批評を行ってきたことで知られており、独自のSF観にそぐわない自作の映画化には言いたいことがいくらでもあった。これに対して、芸術至上主義のタルコフスキーは自身の芸術観に身も心も捧げている。激しい口論の末に、レムは最後に「お前は馬鹿だ!」と捨て台詞を吐いたという。

 レムはこの映画について「タルコフスキーが作ったのはソラリスではなくて罪と罰だった」と語っている。タルコフスキーの側は「ロケットだとか、宇宙ステーションの内部のセットを作るのは楽しかった。しかし、それは芸術とは関係の無いガラクタだった」と語っており、SF映画からの決別を宣言している。」

 

 

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映画『ソラリス』2002年、監督:スティーヴン・ソダーバーグ監督、主演:ジョージ・クルーニー

 この『ソラリス』は再映画化されている。原作が同じなので同じ場面が登場するが、全く印象が違うのに驚いた。このソダーバーグ版では、クリスが自殺した妻レイア(原作ではハリー)とやり直す、ラブストーリーとして作られているようだ。原作やタルコフスキー版にはない、地球でのクリスとレイアの出会いが詳しく描かれ、原作やタルコフスキー版ではあっさりとした説明だけで終わるクリスとレイアとの喧嘩や、自殺の様子も描かれている

 ソダーバーグ版は緊張感に欠け、原作のテーマの未知なる物とのコミュニケーションが感じられないのも残念である。複製と本物の違い、人間とは何かなど、議論が深まっていない。最後に複製の地球が登場するのはタルコフスキー版と似ているが、レイアとの愛に終始しているのが残念。

 詳しくは私のブログ「『ソラリス』タルコフスキー版とソダーバーグ版の比較」及び「『ソラリス』ソダーバーグ版 ネタバレの感想 同じ原作でこんなに違うとは!」「『ソラリス』ソダーバーグ版 ネタバレの詳しいあらすじ」を見てほしい。

 

 

 

2.『シャイニング』

原作『シャイニング』1977年、作者:スティーヴン・キング

 コロラド州のロッキー山上にあるオーバールック・ホテルは、雪深く冬期には閉鎖されるため、冬期間の管理人として小説家志望のジャックと妻のウェンディ、息子のダニーがやって来る。ダニーは超能力「輝き(シャイニング)」を持っていたが、ホテルの調理長ハロランも同じ能力を持ち、2人は言葉を交わさずに会話できた。従業員は退去し、家族だけでしばらく過ごすうち、このホテルでは過去に惨劇の舞台となっており、今でも亡霊がホテルをさまよっているのにダニーが気付く。ジャックは執筆そっちのけでホテルの過去に魅了され始める。ダニーは217号室へ入るように囁く声に導かれて入ると、腐敗した女の亡霊がダニーの首を絞める。ダニーは逃げ出し、ホテルが自分の「輝き」を狙っていることを両親に話し、ジャックも狙われていると打ち明ける。ウェンディはホテルから逃げようとジャックに話すが、ジャックは取り合わない。

 その後、ダニーは次々に超常現象に遭い、ハロランに「輝き」で助けを求める。ジャックは亡霊グレイディから酒を勧められ、禁酒を破って飲んでしまう。ホテルに飲み込まれたジャックはウェンディとダニーを襲うが、ウェンディに酒瓶で殴打され、食糧庫に閉じ込められる。しかし、亡霊グレイディがジャックを食糧庫から出す。ジャックは木槌でウェンディを襲い、ウェンディは包丁をジャックに突き刺す。ダニーの危機を知ったハロランが雪上車でやってくる。ジャックはダニーに襲いかかろうとするが、一瞬正気に戻り、ダニーに逃げるように言う。ハロランとウェンディ、ダニーは雪上車でホテルから逃げ出す。ジャックが調整を忘れたため、圧力の限界を超えたボイラーが大爆発を起こし、ホテルは瓦礫と化す。

 

 

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映画『シャイニング』1980年、監督:スタンリー・キューブリック、主演:ジャック・ニコルソン

 ダニーはこのホテルに亡霊がいると感じ、元管理人に殺された双子の少女、血で溢れるエレベーター・ホールの幻影を見る。ジャックが熱心にタイプを打っていた原稿は全て「All work and no play makes Jack a dull boy(仕事ばかりで遊ばないジャックは今に気が狂う)」と書かれ、彼は狂気に落ちた事を示す場面が衝撃的であった。亡霊のグレイディに、家族を厳しくしつける必要があると言われたジャックは、斧で部屋のドアを破壊して、妻のウェンディと息子のダニーに迫る場面は非常に怖い。ダニーは雪で覆われた巨大庭園迷路にジャックを誘い込む。助けに来たロランはすぐジャックに殺されるが、彼が乗ってきた雪上車でウェンディとダニーはホテルから脱出する。なお、ホテルは爆発しない。

 翌朝、巨大迷路にはジャックの凍死体があった。最後にホテルのラウンジの壁に掲示されている1921年7月4日のオーバールック・ホテルの舞踏会を記録したモノクロ写真に、ジャックが写っていた。

 ジャックが正気を失っていくのは、閉鎖された環境と彼の元々の気質のためか、ホテルの亡霊のせいか、はっきりと説明はない。しかし、ジャックがタイプライターで打っていた原稿が全て「All work and no play makes Jack a dull boy」の文字だった場面は衝撃的だった。最後の写真のジャックは何者なのか?ジャックは過去の亡霊の生まれ変わりだったのか?それともジャックが亡霊たちに取り込まれ、ホテルの一部になってしまったのか?これも説明がないまま終わる。

 ダニーだけに見える双子の少女のシンメトリック、エレベーター・ホールの血の洪水、どこまでもどこまでも同じ光景が続く巨大迷路など、映像も見事である。ダニーが三輪車でホテルの廊下を走る映像や、巨大迷路の中を逃げるダニーをジャックが追いかける映像などは、ステディカム撮影を初めて劇場映画に使ってぶれがなく、静かな映像が恐怖を募らせる。ホラー映画の名作である。

 詳しくは私のブログの記事『シャイニング』ネタバレの感想 精神的に怖いホラー映画の傑作」及び「『シャイニング』ネタバレの詳しいあらすじ」を見てほしい。 

ただし、原作者のキングは、キューブリック独自の解釈による改変を気に入らず、ことあるごとに非難していた。

 

 

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テレビドラマ『シャイニング』1997年、監督:ミック・ギャリス、脚本:スティーヴン・キング

原作者のキングは、キューブリック版の『シャイニング』について、ジャック・ニコルソンによるジャック・トランスの造型や、物語の中核になるはずの「輝き」の存在が希薄になり、単なる怨霊ホラーになっていた点に不満を持っていた。そこで、自分の理想を実現すべく、キング自身の脚本によるテレビドラマを制作した。

 

 

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映画『レディ・プレイヤー1』2018年、監督:スティーヴン・スピルバーグ

 キングがキューブリックの『シャイニング』が嫌いだった話は、映画『レディ・プレイヤー1』にも登場する。パーシバル達は、アノラックのヒント「自分の作品が嫌いな作者」より、ハリデーとキーラがデートで見た映画は『シャイニング』ではないかと推理する。パーシバル達が「オーバールック」と言う名の映画館に入ると、中はホテルになっており、あの文章を打つタイプライター、双子の姉妹、エレベーター・ホールの血の洪水、浴室の老婆の腐乱死体、巨大庭園迷路に遭遇する。CGで描かれた映画『シャイニング』の再現度が高く、非常に感激した。

これも、詳しくは私のブログ「『レディ・プレイヤー1』の『シャイニング』愛が凄い」を見てほしい。

 

 

 

3.『ゲド戦記』

原作『ゲド戦記』1968年~2001年、作者:アーシュラ・K・ル=グウィン

原作『ゲド戦記』は読んでいないので、あらすじは「ウィキペディア」より引用する。

「この世で最初の言葉を話したセゴイによって海中から持ち上げられ創られたと伝えられる、太古の言葉が魔力を発揮する多島海(アーキペラゴ)、アースシーを舞台とした魔法使いゲドの物語。アースシーのうち、主にハード語圏では森羅万象に、神聖文字で表記される「真(まこと)の名前」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名のみを名乗る。主人公を例に採ればゲドが真の名で、ハイタカが通り名である。」

この『ゲド戦記』は、『影との戦い』『こわれた腕環』『さいはての島へ』『帰還』『アースシーの風』の5部からなるが、第3部『さいはての島へ』を元にアニメ化された。第3部のあらすじも「ウィキペディアから引用する」

 「大賢人となったゲドが登場する。世界の均衡が崩れて魔法使いが次々と力を失う中、エンラッドから急を知らせに来た若き王子レバンネン(アレン)と共にその秩序回復のため、世界の果てまで旅をする。ゲドの留守中に“石垣の向こう側”から“この世”へ侵入があり、学院の守りも破られてしまう。」

 

 

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映画『ゲド戦記』2006年、監督:宮崎吾朗

 宮崎駿はアーシュラ・K・ル=グウィンの小説『ゲド戦記』の第3巻『さいはての島へ』を中心に劇場アニメ化し、当時監督の経験が全くない息子の宮崎五郎を監督にした。しかし、映画は原作の『ゲド戦記』とは大きく異なるものになった。

 原作ではゲドとアレンは辺境の島々から死後の世界まで、アースシーの世界を縦横に横断している。映画ではホート・タウンとその周辺で物語が進められる。

 原作でアレンは諸国の調査を命じられて旅をするが、映画では父の国王を殺して逃亡している、

 原作でテルーが登場するのは第5部だが、監督はアレンと同世代の登場人物が必要だと考えて登場させた。テルーの火傷の症状も原作はかなり酷く、歌を歌えないはず。

 原作では「影」は第3部には登場しない。原作では若きハイタカ(ゲド)の影が「心の闇(憎しみや傲慢)」として描かれているが、映画ではアレンの影が「心の光の存在」であるとして描かれている。

 この映画の原作はもう1つあり、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』も原案としたため、大幅な変更があったと思われる。だったら『シュナの旅』を原作にして作ればいいのではと思うのだが。

ル=グウィンの日本語版公式ホームページに、以下の様な映画に対しての不満が載っていた。

まず、宮崎駿が監督する条件でアニメ化を認めたのに、息子の宮崎吾郎が監督した点も憤慨していた。プロデューサーの鈴木敏夫と宮崎五郎がル=グウィンに映画化の交渉に行ったときは、脚本等はなく、吾郎が描いたテルーと竜が向かい合うイメージ画数点だけだったと言う。この絵を見たル=グウィンは、原作のイメージと異なると指摘した。

 自宅で完成した映画を見た後に感想を聞かれたル=グウィンは、関係者が沢山いたため社交辞令で「面白かった」と述べたところ、これを原作者が映画を絶賛したと宣伝に使われた事も不満に思っている。

 ル=グウィンは「アメリカと日本の映画製作者はどちらも、名前といくつかの考え方を使うだけで、私の本を原作と称し、文脈をあちこちつまみ食いし、物語を全く別の、統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。これは本に対する冒涜というだけでなく、読者をも冒涜していると言えるのではないでしょうか。」と激怒して酷評している。また「絵は美しいが、急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」「登場人物の行動が伴わないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などと述べている。

 この様な映画に対する様々な不満が、ル=グウィンの日本語版公式ホームページに書かれていた。しかし、ル=グウィンが2018年1月22日死去したため、日本語版公式ホームページが閉鎖され、現在は閲覧できない。調べたら「TSUTAYA News」2018年1月12日 配信の「原作者『ゲド戦記』“アレンの父親殺し”にガッカリ… ブログで酷評したワケとは?」に詳しく紹介されていたので、興味がある方は見て欲しい。

 

 

4.『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』

原作『ハロウィーン・パーティ』1969年、作者:アガサ・クリスティー

 イギリス・ロンドン郊外の〈リンゴの木荘〉でハロウィーン・パーティが行われる。その準備中にジョイス・レノルズが「私、ずっと前に人殺しを見た。その時は人殺しだと知らなかったが、1・2か月前にわかった」と言う。ハロウィーン・パーティ中に、ジョイスがゲーム用の水が入った大きなバケツで溺死させられる事件が発生する。パーティに参加していた探偵小説家のアリアドニ・オリヴァは、知り合いのエルキュール・ポアロに捜査を依頼する。ポアロはジョイスが見たと言う殺人事件の犯人が、ジョイスを殺したと考え、捜査を始める。スペンス元警視によれば、この近辺で過去数年間に4つの殺人事件があった。ポアロがパーティの参加者や関係者に話を聞くうちに、ジョイスの弟も殺害される。ポアロは、ジョイスの殺人事件は、過去の殺人事件と関係があることがわかる。

 話が複雑なので、詳しいあらすじは私のブログの「『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』原作小説『ハロウィーン・パーティ』のネタバレの詳しいあらすじ」を見てほしい。

 

 

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映画『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』2023年、監督・主演:ケネス・ブラナー

 ケネス・ブラナー監督・主演による名探偵ポアロの映画化は、『オリエント急行殺人事件』(2017年)と『ナイル殺人事件』(2022年)に次いで3作目である。前2作は多少の改変はあるが、おおむね原作の通りであった。ところが、この映画『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』は、原作とあまりにも違い過ぎていた。

 原作の舞台はイギリスのロンドン郊外であるが、映画ではイタリアのヴェネチアである。

 第1の殺人事件は、原作ではパーティの最中にジョイス・レノルズがリンゴ食い競争のバケツの水で溺死させられた。主催者のロウィーナ・ドレイクが、2年前にマイケル・ガーフィールドとオルガ・セミノフを殺害した現場をジョイスに見られたと思い、彼女を殺害した。映画ではパーティが終わった後の降霊会後に、霊媒師のジョイス・レイノルズが吹き抜けから転落し、石像の槍に刺さって死亡。主催者のロウィーナ・ドレイクが娘アリシアの死についてジョイス・レイノルズが強迫したと勘違いし、ジョイスを殺した。

 映画では、過去にロウィーナが娘のアリシアにシャクナゲの毒を飲ませて衰弱させていたが、誤って家政婦のオルガがシャクナゲの毒を大量に飲ませたために、アリシアが死亡した。ロウィーナは娘の死を自殺に見せかけるために、彼女の死体をベランダから運河に投げ捨てた。と言う事件があったが、原作ではシャクナゲの毒やロウィーナの娘は登場しない。

 つまり驚いたことに、ポアロが事件を捜査する事(ポアロがいなかったら、『名探偵ポアロの映画』と言えない)と、ハロウィーンの夜に殺人事件が起こる事、一部の登場人物の名前が同じこと、これ以外に関係がない。映画はハロウィーン・パーティ後に降霊会を行ったので、ハロウィーンとは直接関係がない。全く別作品と言っていい。だったら、この『ハロウィーン・パーティ』を原作にする必要があったのだろうか?

詳しくは私のブログの記事「『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』映画と原作小説『ハロウィーン・パーティ』が違いすぎる」を見てください。