『杉原千畝』ネタバレの詳しいあらすじ | アンパンマン先生の映画講座

アンパンマン先生の映画講座

映画の面白さやストーリーの素晴らしさを伝えるため、感想はネタバレで、あらすじは映画を見ながらメモを取って、できるだけ正確に詳しく書いているつもりです。たまに趣味のAKB48のコンサートや握手会なども載せます。どうかご覧ください。

イメージ 1
 
昭和30(1955)、東京。ユダヤ人のニシェリは外務省を訪れ、関満一朗に「自分の命を救ってくれたセンポ・スギハラという外交官と会いたい。」 と、リトアニアで発行されたヴィザを見せる。関満はそのような外交官はいないと返答する。
(タイトル『杉原千畝』)
昭和9(1934)満州国。雪原を走る列車の中でソ連の諜報員が、白系ロシア人のイリーナとマラットと共にソ連との北満鉄道譲渡交渉を有利に進めるための諜報活動を行っていた、満洲国外交部の杉原千畝を追っていた。千畝はイリーナの機転で助かる。
千畝は関東軍の南川欽吾に会い、関東軍を利用して確実な解決策を採ろうと考えた。その夜、ロシア人が機関車を盗もうとしたのを防いだ千畝達は、銃を構えたソ連軍に囲まれる。そこへ南川が関東軍を連れてやって来て、ソ連兵を撃ち殺す。南川は、ソ連兵が抵抗したと見せかけるために、千畝の部下のマラット達をソ連兵の銃で撃ち殺す。イリーナは杉原を「人殺し。」となじる。
千畝の証拠で、ソ連は北満鉄道の譲渡額を62500万円から14千万円まで引き下げた。だが、千畝は満洲国を私物化する関東軍に嫌気がさし、満州国領事の大橋に辞表を提出した。
  昭和10(1935)東京。外務省で、千畝は関満一朗からモスクワの日本大使館へ2等書記官として赴任を命じられた。杉原は念願のモスクワへの赴任を喜んだが、ソ連は北満鉄道の件を理由にペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)を発動し、千畝の入国を拒否した。
 落胆した千畝は、友人の菊池静男と居酒屋でヤケ酒を飲んだ。千畝は菊池の家に泊まり、夜中、襖を開けると、着替え中の女性にはたかれた。朝、菊池にその女性である妹の幸子を紹介される。千畝は恋に落ち、2人のデートが始まった。次の年の春、千畝は関満から、リトアニアのカウナスに領事館を作り、ソ連の動きを探るように命じられた。
昭和14(1939)リトアニア・カウナス。結婚した幸子も一緒にいた。千畝は領事館の現地職員として、ドイツ系リトアニア人のグッジェを雇った。外交官交換会で、オランダ領事のヤンと知り合いになる。ポーランド政府のスパイのペッシュは、千畝に諜報活動員として雇わないかと申し出るが、千畝は断り、運転手として雇う。
 ポーランド国境。千畝は商社を経営しているユダヤ人のガノールと親しくなり、ソ連への輸出ルートを聞く。ソ連艦隊がリトアニアの不凍港を狙っていた。千畝がカウナスに赴任した直後、ソ連はナチス・ドイツと独ソ不可侵条約と締結し、ドイツはポーランド侵攻を開始した。杉原とペシュは収集した情報を分析し、独ソが東ヨーロッパを分割支配しようとしていることを突き止めた。
ベルリン・ドイツ領事館。千畝は駐ドイツ特命全権大使の大島浩に、「ドイツは独ソ不可侵条約を破るつもりで、日本がドイツと同盟を結ぶのは、最後はアメリカと戦争することになる。」と伝える。大島は、ドイツではなくソ連の情報を得るようにと叱る。
ガノールは千畝に、親戚のローゼンタールを紹介する。彼はユダヤ人仲間とワルシャワから逃げてきたが、途中でドイツ兵に多くが殺され、生き延びたのは彼と孫だけだった。
リトアニア国境の橋を、多くのユダヤ難民がドイツからの迫害を逃れて来る。フィンランドがドイツに併合された。リトアニアもソ連に併合されれば、ユダヤ人難民の行き場はなかった。
昭和15(1940)、ソ連軍がリトアニアに侵攻し、アメリカ公使館が閉鎖された。ユダヤ人難民達はオランダ領事館に集まる。お金と目的地があれば、ソ連は通過できる。しかし、オランダはドイツに占領され、領事代理ヤンはヴィザを発行できない。ユダヤ難民達は、通過ヴィザを求めて日本領事館前に集まり始める。千畝は教会でイリーナと彼女の偽夫に会い、通過ヴィザの発行を求められる。夜通し、ユダヤ難民達がヴィザを求めて門の前にいた。
千畝は日本に問い合わせるが、旅費と目的地があるなど、しっかりした資格がある者にだけ発行するようにとの指示だった。リトアニアは2週間後にソ連に併合される予定だった。千畝はユダヤ難民の代表のニシェリたちと話し合う。オランダ領事館のヤンは、「オランダの植民地であるカリブ海のキュラソー諸島へはヴィザなしで渡航できる」と言う証明書を発行しており、難民達がリトアニアを脱出するための目的地の口実になる。千畝はヤンに会うと、「そのためにクビになっても良い」と言う。
次の朝、千畝は通過ヴィザの発行を開始する。先頭のニシェリと「いつか会えるのを楽しみにしている」と握手する。パスポートの写真を剥がした跡がある女性がいたが、千畝はヴィザが必要なのだろうと発行する。グッジェは時間の短縮にと、ヴィザの文章のハンコを千畝に渡す。
千畝はガノール社長に一家のヴィザを届けに行き、早く脱出した方がいいと忠告するが、ガノールは工場の整理が終わらないと言う。千畝はイリーナと偽夫にもヴィザを発行する。
829日、日本領事館が閉鎖になる。千畝はホテルでもヴィザを発行し続けた。9月5日、カウナス駅でもヴィザを発行し続け、いよいよ列車の発車時刻になり、千畝はグッジェにヴィザ発行の印鑑を託す。グッジェは命を救ったリストを千畝に渡す。千畝一家は列車でベルリンへ向かう。
9月、ベルリンのドイツ大使館。千畝は中島に、「ドイツの快進撃はいつまでも続かない。ドイツは不可侵条約を破る気でおり、そうなれば日本はアメリカと戦争しなければならない。三国同盟は危険だ、」と進言するが聞き入れられない。中島より杉原は、チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館の赴任を命じられる。
ニシェリ達多くのユダヤ難民がリトアニアから脱出し、シベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着した。次々に極東に押し寄せる難民に困惑した外務省は、ウラジオストクの総領事館に「ヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、ウラジオストックの大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、 船に乗る許可を与えること」と厳命した。
 しかし、ハルビン学院で千畝の後輩であったウラジオストク総領事代理の根井三郎は、ユダヤ難民達の窮状に同情し、旅行会社の大迫辰雄に日本海汽船の「天草丸」に乗船させるように伝える。
 昭和16(1941)3月、日本海敦賀湾。多くのユダヤ難民を乗せた「天草丸」から日本本土が見えた。
 5月。ドイツ領東プロイセン・ケーニヒスブルグ総領事館に赴任した千畝は、ドイツ軍の行動を探っていた。千畝とペシュはドイツ軍が国境地帯に集結していることを掴み、ドイツがソ連への侵攻を計画していることを察知した。
 千畝は駐ドイツ大使の大島浩に「ドイツはソ連に間もなく侵攻する。日本がアメリカと戦争になってもドイツの支援は得られない。」と忠告した。帰り、千畝の乗った車がゲシュタポに追われるが、うまく撒く。
 622日、ドイツがソ連に侵攻し、ソ連に併合されていたリトアニアへもドイツが侵攻した。ガノール一家は、家族がバラバラにトラックに載せられ、ガノール社長はドイツ軍に射殺された。ドイツがユダヤ人虐殺を始める。
 12月、ドイツはソ連への侵攻計画を漏らした千畝の国外退去を要求した。ベルリンが空襲を受ける中、ベルリン大使館で中島が千畝にルーマニア公使館への赴任を命じる。千畝は中島に対し、「アメリカと戦争すれば、日本は負ける。」と警告する。
 128日、真珠湾攻撃。第2次世界大戦がはじまった。その後、日本の状況は悪くなっていく。
 昭和2052日、ドイツのダッハウユダヤ人強制収容所が解放され、ガノールの息子が救われる。57日。ドイツは連合国に降伏。
 8月、ブカレストの捕虜収容所。日本はポツダム宣言を受け入れて負けた。千畝にイリーナからの手紙が届く。「偽の夫はユダヤ人の科学者で、アメリカに渡って原爆を製造した。千畝は多くのユダヤ人を救い、その子孫は世界中に散らばって未来を作った。」読み終わった千畝は涙を流す。
 千畝が発行したヴィザの枚数は2139枚。少なくとも6000人のユダヤ人の命を救った。
 破壊された都市の瓦礫の中で、ペッシュは孤児の少女の手を取って歩き出す。
 昭和43(1968)10月、モスクワ。外務省を退官して貿易会社に勤めていた千畝は、二シェリと再会する。二シェリは32年間、千畝の行方を捜していた。
 昭和60(1985)イスラエル政府より「ヤド・パシェム(諸国の中の正義の人)」を授与される。昭和61(1986)731日、86歳で永眠。
20001010日、外務省が千畝の名誉を回復する。
(エンドロール)実際の千畝と幸子、現地の写真などが映される。