FM243 オランダ商館長の墓◇静岡県 掛川 天然寺 2026/05/06

 

墓誌は阿蘭陀字[おらんだじ]なり。五六年前紅毛人[おらんだじん]旅中ここに没す。これも東海道のうちにしてはめづらし。

(曲亭馬琴「紅毛人の墓」より)(*1)

 

遠州掛川城の東南、旧東海道の通ずる仁藤町に天然寺がある。門前にたつ石碑に

「和蘭使節 ゲースベルトヘムミ先生古墳」

とあり、長崎のオランダ商館長ヘイスベルト・ヘンミーの墓の所在をしめしている。その姓はヘンミ、ヘンメイともしるされる。名の語頭に「ゲ」とも「ヘ」とも書くが、のどの奥に息をこする摩擦音をうつしている。

(写真は静岡県掛川市にて2026年5月6日撮影)

 

碑の背面には

「浄土宗 泉洞山天然寺境内
西暦一千九百五十一年五月建之 和蘭大使館」
の文字がある。在日本オランダ大使館が1951年5月に建立した由。

 

門をくぐり本堂にあゆみよる。

 

「天然寺」の扁額は「華頂知恩教院/大僧正順眞書/[印]」の署名をもつ。

華頂山知恩教院大谷寺、つづめて知恩院という本山の大僧正による揮毫である。
 

これが石碑に「古墳」という墓である。画面中央にみえる基壇のうえの「かまぼこ」型の墓石がそれ。(*2)

 

オランダ商館長の墓は門のひだり手、「境内」とはいえ塀の外にあり、おもて通りからじかにのぞき見ることができる。後方の大きな石碑に、あとで近づいてみよう。

 

道路の歩道からのぞきこむ。

 

ヘイスベルト・ヘンミー Gijsbert Hemmij (1747-1798) は、長崎出島のオランダ商館に1792年(寛政四年)商館長として赴任した。江戸参府からの帰りみち、当地で急逝した。1798年6月8日(寛政十年四月二十四日)のことである。

 

墓石の表面に刻まれたオランダ語文をうつし、その訳文をそえた石碑である。

 

「蘭文碑銘重見」その下にオランダ語文。

 

「譯文由緒」その下に縦書きで漢文。

 

墓石そのものは風化して摩滅がはなはだしく、もはやよみづらい。

 

光のかげんで、なんとかよみとることのできる部分もある。写真は正面からみて右上にあたる、文章のはじめの5行の右端。(*3)

 

門の内側の「境内」。画面の左に門、右端に本堂の屋根、正面のたてものは幼稚園・保育所「天然寺学園 智光こども園」という。

(大井 剛)

 

(ヘンミーの人となり ⇒ FM243_S1 [準備中] )

 

(*1) 曲亭馬琴「紅毛人[おらんだじん]の墓」『蓑笠雨談』(さりつうだん) 享和三年(1803年)自序、享和四年刊(名古屋:永樂屋東四郎、大坂:河内屋太助、江戸:蔦屋重三郎)。初編巻一。

 

項目「紅毛人[おらんだじん]の墓 幷 舶人[はくじん]の歌曲」のもと、前半に轉念寺(天然寺)にある客死したオランダ人の墓について、後半に寛政十二年(1800年)遠州灘に漂着した清の船と清人から習得した歌曲について記す。

 

後半の内容については、加藤徹教授の解説にくわしい。

「寛政十二年遠州漂着唐船「萬勝号」について 附:「十八摸」」
明治大学 - 加藤徹 - 明清楽資料庫 (2010/08/17 更新)
[webpage] www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/singaku-06.html
 

〔九オモテ〕
紅毛人[おらんだじん]の墓 幷 舶人[はくじん]の歌曲
遠州掛河。轉念寺[てんねんじ]本堂の前。西のかたに紅毛人の墓あり。高サ二尺ばかり。幅五尺に二尺五寸もあるべし。上は蒲鉾形[かまぼこかた]にして長櫃[ながひつ]の蓋をふせたるごとし。四方に石垣をして施主
〔九ウラ~十オモテ〕
[挿図]
〔十ウラ〕
大通辭某の姓名を刻す。墓誌は阿蘭陀字[おらんだじ]なり。五六年前紅毛人旅中ここに没す。これも東海道のうちにしてはめづらし。
亦寛政十二年十二月十二日。大清[たいしん]寧波府[ねいはふ]の舶人[はくじん]劉然乙[りうぜんおつ]等。その徒八十六人。遠州袖志[そでし]が浦<去挂川三里許>に漂着す。〔後略

 

〔画像〕国文学研究資料館蔵、鵜飼文庫。請求記号:96-1068。

[webpage] kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020269/

〔八ウラ/九オモテ〕

 

〔九ウラ/十オモテ〕

「五費軒 香のけふりも/阿蘭陀文字の/墓まいり」

 

〔十ウラ/十一オモテ〕

 

〔十一ウラ/十二オモテ〕

 

(*2) 天然寺境内にある「ゲイスベルト・ヘンミィの墓」案内解説板(掛川市)。

 

(*3) 田中裕介「静岡県掛川市天然寺ゲイスベルト・ヘンミイ墓 -客死したオランダ商館長の墓地-」『史学論叢』No.51、別府大学史学研究会、2021年3月、pp.139-151.

 

この田中論文にのせる墓石の写真は、文字がはっきりと判読しうる。

 

ヘンミイ墓の銘文 (以下、田中論文 p.144 による)。

 HIER ONDER RUST

 HET STERFE LYKE

 GEDEELTE VAN DEN

 WELEDEL ACHT BAAR

 HEER Mr GYSBERT

 HEMMY IN ZYN

 EDELENS LEEVEN

 OPPERKOOPMAN

 EN OPPERRHOOFD

 VAN DEN JAPANSEN

 HANDAL GEBOOREN

 DEN 16 JUNY 1747 EN

 OVERLEEDEN DEN

 8 DITO Ao 1798 EN BE

 GRAAVEN DEN 9 JUNY

   1798

 

「この地下静座の体あり、敬うべし尊ぶべし、名を「ゲイスベルトへムミ」先生と称する君の生を終わりたるところなり。先生存命のあいだ、職にあって主るところは日本国交商の大商官と鑒舶師を摂りたり。わが紀元1798年6月8日往生而葬之。

(天然寺保存訳文より)」

 

原文の最後に「6月9日に葬られた」としるす。

 

(更新記録: 2026年5月6日起稿、5月11日公開、5月17日註1、5月19日修訂)