FM230_S1 高麗若光の遺跡◇高麗神社と聖天院 2025/12/12
高麗神社の南西約400mの位置に聖天院がある。(*1)
(写真は埼玉県日高市新堀(にいほり)にて2025年12月12日撮影)
望遠する。画像の手まえにひろい駐車場、囲いのなかは工事中で重機がある。
高麗神社と聖天院の背後は標高140mないし190mほどの丘陵が台地をなしているが、ゴルフ場がふたつ造成された結果であろう。さらに背景をなすのは、物見山(標高375.3m)である。
山門のまえの池をいだく庭園。
「天下大將軍」「地下女將軍」がここにも。石柱である。
「高麗山」の「雷門」。(*2)
雷門の内側をのぞく。
ながい石段のの入口に「ここより有料」と。拝観料400円。(*3)
雷門とその上のたてもの。
有料ゾーンの入口にはこんな札も。「参拝された方は/かぶを一人3個ずつ/お持ちください」と。
高麗若光の遺跡は、「ここより有料」の手まえにありました。
「高麗王若光」という。高句麗から日本(と呼ぶべきか)に帰化したとき(これを帰化人とよぶ)、王の姓を下賜されたことが『続日本紀』の記事にある。それにもとづく名であって、高句麗の王族という意味ではない。まして高句麗の王を意味しない。この人が高句麗の王族であるという認識があってこそ、王の姓がえらばれたのであろうけれども。
現地にたつ「大韓民国 国務総理 金鐘泌」の署名のある碑は「高麗若光王」の陵としるす。いわゆる王陵とは異るが、陵というからには君主の墓をさす。誤認であるか故意であるかは不明。(*4)
遺物の覆屋の額は「高麗王廟」。
まつられているのは、いわば墓石です。文字はみあたらない。厳密には墓と廟とはちがう。なきがらをほうむる所が墓で、その人をまつっておまいりする所が廟。
墓の両脇におかれた羊の石像。
「羊石像」を平成十二年(2000年)に川口のひと(韓国/朝鮮名である)が寄進したという石柱がたっていた。
池をめぐりて高麗の郡をしのぶ。標柱は「史跡 高麗殿池」。(見出し写真におなじ)
なじかはしらねど、日本国国土地理院地図(インターネット上に公開された画像は何万分の一などと固定できなくなってしまいました)に、高麗神社、聖天院ともに字名(行政地名)なみの大きさの字で名称がしるされているが、神社の記号も寺院の記号もともなわない。「なじかはしらねど」がどこにかかるかは、書き手もしらない。(*5)
とにかく良い天気にめぐまれました。
(大井 剛)
(*1) 「高麗郷絵図」クラフト高麗[企画描画]、日高:株式会社ノア[制作発行]、n.d.
地図の中央あたり高麗川がまるく屈曲する内側が巾着田。その北東、川の北西側に高麗神社と聖天院がある。
(*2) 「雷門」改修記念碑(日高市教育委員会、2013年(平成二十五年)11月4日)。
碑文に「雷門は天保年間 江戸浅草寺仁王門を模し六年の歳月を費やして建立された」とある。「創建百八十年を機に」改修工事を「行う」のであった。それが「平成二十五年」だとすると、なにがなん年だか手前で計算しなさいと。
計算の起点が天保年間(1831-1845年)で、建設期間が6年で、創建180年で、改修に着手するのが平成二十五年(2013年)なのだそうだ。
(*3) 「高麗山 聖天院 勝楽寺」の案内解説板(1982年(昭和五十七年)3月)。
案内解説板「聖天院の由来」(日高市、2002年(平成十四年)5月)。
(*4) 金鐘泌(キム ジョンピル/きん しょうひつ 1926-2018)は韓国の軍人・政治家。朴正熙政権の国務総理、韓国中央情報部(KCIA)を創設して初代部長となる。のち金大中政権のもと国務総理(首相)をつとめた。
(*5) 国土地理院*地図のウェブ版(電子国土ウェブ)で縮尺を大きくしてゆくと、ある縮尺において(スケール500mがでる)神社の記号と寺院の記号があらわれることを「発見」した。
そういえば「諏訪大社」もおなじであった。「諏訪大社上社本宮」「諏訪大社下社秋宮」「諏訪大社下社春宮」が同様である。「諏訪大社上社前宮」については、文字の表記はあるが、神社の記号は(スケール500mで)あらわれない。(2026年1月1日追記)
(更新記録: 2025年12月12日起稿、12月20日公開、12月27日修訂、2026年1月1日追記)


















