FM227 手つかずの縄文後期・晩期集落◇茨城県 土浦市 上高津貝塚遺跡 2025/11/16

 

発掘は、貝層が分布する斜面に行われ、平坦部の縁辺に構築されたと推定される住居の設けられた区域及び集落の中央部については全く手つかずのままに保存されている。(文化庁)(*1)

 

上高津貝塚の遺跡である。「ふるさと歴史の広場」*として整備され、開館30周年をむかえた土浦市立考古資料館がたつ。史跡の指定は1977年(昭和五十二年)。

(写真は茨城県土浦市上高津にて2025年11月16日撮影)

 

発掘調査によりあきらかになった竪穴式住居3棟、墓壙3基、廃棄土坑1基が復元展示されている。

 

墓壙の復元展示。手まえから1号墓壙、5号墓壙、さらにもうひとつの墓。

 

縄文時代の墓は盛り土がほどこされていたと考えられるが、発掘調査したときには周囲と高さがかわらなくなっていた。土がながれたりして低くなっていったのだろうと案内解説銘板にある。

 

遺跡のまわりに縄文の森をおもわせる樹木がのこされている。(写真4枚目)

 

地表には貝の殻などがちらばっていた。

 

上高津貝塚は「土浦市の西郊外、霞ヶ浦の西浦最奥部に流入する桜川の右岸に所在する縄文時代後期から晩期の集落跡である」。(*1)

 

貝塚の発掘状況を保存し展示する施設。写真の右方に貝塚の地表面がみえている。

 

「遺跡は、標高20~22メートルの東西に起る丘陵の縁辺に位置し、径約150メートルの平坦面を囲むようにして5地点に貝塚が分布する。」(*1)

 

展示施設のなか。貝などの堆積した状態をしめす。

 

「貝層は、1~1.5メートルの厚さで、淡水産のシジミを主体とし、ハマグリ・アサリ・カキなど海水産を含む。」(*1)

 

「貝層中に包含される魚骨の詳しい研究成果があり、魚の体長復元と回遊時期の推定によって、魚類による漁撈期を割り出す方法が示された。

「また貝層を構成する貝の日毎生長線(日輪)の観察によって早春から初夏にかけて全体の約7割の貝の採集が集中的に行われた事実を明らかにした。

「このことから、膨大な貝の堆積をもつ集落が、日々の食用のみでなく、乾貝など大量の保存加工を行った、いわば海産物加工場的な性格を帯び、内陸部への供給さえ用意されていたのではないかという仮説の根拠ともされたものである。」(*1)
 

展示施設をよこからみる。

 

貝塚のまわりをめぐる散歩道。写真の左上に見おろす場所がある。上掲の「縄文の森」(写真4枚目)は、そこからの展望。

 

ひとつ前の写真の奥にうつっている樹林の側、つまり向う側からふりかえったながめ。

 

貝塚の調査は、1900年(明治三十三年)の表面採集資料による学界報告にはじまる。

1930年(昭和五年)以降、「大山史前学研究所による発掘調査が実施されたが、このときの出土品及び記録類は第2次世界大戦の戦災によって失われた。」

その後、1950年(昭和二十五年)、1958年、1959年に慶応義塾大学の発掘調査が実施された。「発掘は、貝層が分布する斜面に行われ、平坦部の縁辺に構築されたと推定される住居の設けられた区域及び集落の中央部については全く手つかずのままに保存されている。」(*1)
 

「貝層が分布する斜面」のまわりをあるいた。「平坦部」とか「中央部」とかいうのが、ここか。遠く復元住居3棟がみえるところが「平坦部の縁辺」にあたるのであろう。

 

草はらにつどう人びとは、紙飛行機をとばすわざをきそう男の年よりたち。午前9時の開館まえから十数台のくるまが駐車場をうめていたわけが知れる。

 

霞ヶ浦が海とつながる汽水湖であったあかしをみた。

(大井 剛)

 

(考古資料館 ⇒ FM227_S1「常陸古代の文字◇茨城県 土浦市 上高津貝塚 考古資料館」2025/11/16 へ)

 

(*1) 文化庁* 国指定文化財等データベース「上高津貝塚」。

 

(更新記録: 2025年11月16日起稿、11月19日公開、12月27日修訂)