FM221_番外地 「自己」と「非自己」と◇多田富雄『免疫学個人授業』
<新刊卒読/旧著味読> 2025/08/29
多田富雄(1934-2010)『免疫学個人授業』をよむ。(*1)
生徒の達人、南伸坊による講義録。免疫学者の先生による添削つき。
15回の講義のうち第1講で、多田先生はシンボーのノートを読んで、「免疫というからには病いから免れられるはずなのに、難病の多くは免疫のせいだ」という免疫の最大の矛盾に気づいている南くんを「さすが」とほめる。「永年講義してきた東大生でも、それに初めから気づいた学生はほとんどいませんでした」。(同書 p.17)
(8月29日)
科学的大発見の世界的歴史的瞬間に「居合わせる」体験をした(しかも二度も)多田先生、先生は「ノロい人」だったので大学者になったのだと納得する南くん。大発見の現場として、あのアルキメデスが「お風呂のお湯がザーッとこぼれるのを見て」、あ、もう、わかっちゃったんだもんね、とさけぶ(ドウモまだショージ君の余韻がぬけきっていない)、もう南くんのノートをそのまま写してしまうかんね。
(ショージ君 ⇒ FM220「霧ヶ峰 秋の植物群落◇車山高原」2025/08/22 冒頭引用)
「私はお風呂に入るたびにアルキメデスの原理を「発見」してました。ザァーッとお湯がこぼれる様子にじっと目をこらしていると、アルキメデスの「よろこび」が湧いてくるような気がする。
「だから、お風呂のお湯は、なみなみと沸かさなくちゃいけない。それは結婚した時から奥さんにそのように言いふくめて、ムダを承知でそうすることにしていたのです。
「ところが最近引っ越しをして、その引っ越し先のお風呂というのが、マイコンだかなんか知らないが、お湯の量を勝手に「判断」して、「カシコイ水位」でもって止めてしまうということになってた。
「カシコイ水位は、たしかに人一人が入るとちょうどノドの辺りにきて、ムダが出ないのです。非常に気が利いてるのかもしれない。だが私はイヤですね、なんだコノヤロと思いました。
「そんなこと勝手にしたら、私の大発見はどうなるんだ! と思いました。「う~ん」と唸ってましたら奥さんが、どうしたの? と訊きに来ましたので、右のようなことを述べました。「あー、そうだったねゴメン。それはね、そういう機能もちゃんとついてるの。ここのね『殿様』って書いてあるボタン、これ押すとザァーッてなるとこまでお湯が入る」
「私の大発見はつまり、殿様モードなのだった。殿様モードねえ、なんだオレは殿様だったのか、と私はちょっとかたづかないのだ。オレは殿様だったから、お湯を湯水のように浪費してたんじゃない。あのお湯は大発見の「夢」なんだ!」(pp.41-42)
湯の脇の、当家の源泉かけながし湯船は、原理的に常時「殿様モード」である。まいにち山の神と、一日いくたびアルキメデスになれるか、ザーッを競っている。
(8月30日)
免疫とは自分と自分でないものとの分別のしくみだ。しかし免疫系は「非自己」を認識し排除するというような単純なシステムではない。「現代の免疫学においては、もともと「自己」を認識する機構が、「自己」の「非自己」化を監視するようになっていたと考えている」。「つまり、自分と自分じゃないものを区別するには、自分を見失わないようにすることだっていう話なんですよ」。(p.98)
「免疫の基本中の基本のキーワードは「自己」、自分ということだった。自分というのは顔であり、脳ミソであると、私たちは思っていたが、リンパ液の中にある免疫系でもあったのだ」。(p.161)
「自分というのは、自分のHLAだ。/自分じゃない奴は自分じゃない。/自分じゃない奴じゃない奴は自分だ。」(p.105) HLA抗原(ヒトの組織適合抗原)
生命の全体性は「超[スーパー]システム」である。それをささえるのが「あいまいさ
[アンビギュイティー]」あるいは寛容である。
「人間は何のために生きるかというと、生きるために生きるというね、こういう自己目的化しちゃうところが、超[スーパー]システムの特徴ですし、ある意味で危険なところですね」。(p.70)
なんのために生れ、なんのために生きる、そんなこと朝のTV放送劇をみながら考えるもんじゃありません。(こういう「時事的」にハマル箇所は、じきに季節はずれとなる。文章は新しいところから腐るのである。) (*2)
病気になる。患者をなおすのは、医者でも抗生物質でもワクチンでもない。
「病気というのは「病原体」のバイキンやウイルスが入ってくるからおこるのではない。なぜならば、バイキンやウイルスは、のべつ入ってきてるからだ。入ってきたからって人間は病気にはならない。
「病気を治していたのは、人間のからだの中にある、治るしくみだったのだ。治るというより、いつもの状態に保つしくみ、自分以外の異物をみとめず、異物の入ってきた時は、それを排除するために、二重三重、十重二十重のあの手この手をつかっていた、そのしくみだったのだ。
「それがつまり、免疫系である。」(p.156)
全15回の講義は1995年から翌年にかけておこなわれた。それから三十年、免疫学はさらに変化しているだろう。多田富雄先生の手になる、もっと詳しい解説書もある。
つまるところ私は(というのは、これを書いている張本人は)、山の神ともども、コロナだかなんだかのワクチンなるいかがわしいシロモノを、体内に一度も注入しなかった。そもそもインフルエンザ・ワクチンをいっぺんも打ったことがない。それでもいまだ死んだことがないのは、運がよかったのだと感謝しつつ温泉三昧の日日をおくっている。
(8月31日)
多田富雄著『免疫・「自己」と「非自己」の科学』をよむ。(*3)
多田先生は「せめて10年ていどは、大筋において書き改めなくてもすむように」(本書 p.217「あとがき」)したはずである。
その倍以上、25年の歳月が経過した。
これより新しい「免疫」の講義は〔私は〕うけていない。
(9月24日)
〔シンボーにならって、相対的にあたらしい多田先生の本から摘要したかったが、ぐずぐずしているうち年を越してしまった〕
2025年ノーベル賞生理学・医学賞をうけた免疫の研究が、さっそく普通のひと向けの本になった。それは
『免疫の守護者 制御性T細胞とはなにか』坂口志文、塚崎朝子著、講談社、ブルーバックス、2025年10月20日刊
である。同月22日の第5刷を手にとった。Kindle版もあるようだ。
よめばかわるという本ではない。理解するには専門的な知識と経験を要する。
研究歴が詳しい。ノーベル賞受賞者のはなしをライターがききとってまとめたものである。著者名に両者を併記しているところ、著者のひとがらですね。こういうばあい、ふつうライターはおもてにでない。ほんとに書いてもらったかもしれないが、著者が本気をださないと、ライターだって書けないし、それに著者夫人の校閲をへているだろう。
授賞の対象となった研究は、独創的な研究の例にもれず、はじめは相手にされなかった。どころか批難にさらされた。それから正当に評価されるまでの道のり。おもえば、三十年前の研究成果が[共同]授賞の対象ではないか。
日本人がふたり一度にノーベル賞を受賞したからといって、いまの日本の科学が世界の尖端にある証しにはならない。ノーベル賞をうけるには、長生きが第一の条件だということは、まちがいない。
(大井剛)
(*1) 『免疫学個人授業』多田富雄、南伸坊著、新潮社、1997年。(同、新潮文庫、2001年)。165p.
初出:『シンラ SINRA』1995年2月号~1996年4月号。
(転記のもと:FM218ex「晴耕雨読の記 上諏訪 湯の脇」2025年08月 から。当該の文章は、もと記事から削除した。)
(*2) ひとは何のために生きるか、そんなことわかるわけないだろ。
参考資料:吾妻ひでお『失踪日記』『失踪日記2 アル中病棟』イースト・プレス、2005年、2013年。
吾妻ひでお『逃亡日記』日本文芸社、2007年。p.004[漫画] および p.205[談話].
「漫画家協会から表彰されたから、入会しようと思って『アンパンマン』のやなせ(たかし)さんに入会させてほしいって言ったんだけど。本人に「今度失踪したら君、除名だよ」って。いきなりだから。腹立つジジイだなあって(笑)。で、もういいやって、入ってない。入会方法のパンフレット見たら、実際に書いてあるんだ。失踪したら除名って。なんでなんだろう?」
「失踪するような会員こそ、協会がかばってやれよ。」(同書 p.205)
(*3) 『免疫・「自己」と「非自己」の科学』多田富雄著、日本放送出版協会、2001年、NHKブックス。219p. 放送番組をもとにしてまとめた本。
『免疫の意味論』(1993年)、『生命の意味論』(1997年)、ともに摘要はおあずけ。いつになるやら。
(更新記録: 2025年8月29日起稿、2026年1月30日編修、公開)

