FM104 社交間隔:ソーシャル・ディスタンスを考える 2020/05/24

 

そのとき、スプーティ長老は、師に向かって次のように問うた--「師よ、求道者の道に進んだ者は、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」
 

師は答えられた--「スプーティよ、ここに、求道者の道に進んだ者は次のような心をおこすべきだ。すなわち、
『わたしは生きとし生ける者を、汚れのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない。しかも、このように生きとし生ける者を永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはないのだ。』
と。
 それはなぜかというと、スプーティよ、もしも求道者が、《生存するもの》という思いをおこすとすれば、かれはもはや求道者とは言われないからだ。個体という思いや、乃至(
ないし)個人という思いなどをおこしたりするものは、求道者とは言われないからだ。
(『金剛般若経』--『般若心経 金剛般若経』中村元、紀野一義訳注 (岩波書店、1960年、岩波文庫) p.93「17・a」より)(*1)
 

緊急事態宣言の解除を検討し、ひとびとの行動様式や経済活動の制約をゆるめる方向に、日本国の舵をきるそうです。もともと罰則規定をともなわない「自粛」要請でしたから、おのづから規制に限界がありましたが、それにしても世のなか変りましたね。道ですれちがうひとにマスクをかけない顔をほとんどみかけません。三日に一度スーパーマーケットに買いだしにいけば、入口で手をアルコール消毒し、会計「レジ」にならぶとき前のひとと1.5メートル間隔をあけます。ウチのまわりはとりわけお行儀がよいのでしょうか。よそに行かないので較べようがありません。(*2)
 
「新型コロナウイルス感染症」対策の要諦は、ヒトからヒトへの感染を予防することです。故に、ヒトとの接触を絶つ。これが最善策。さはさりながら、ひとたるもの、ひとりではさびしい。なにせ社会性をもつ動物ですから、どうしてもよりあつまりたくなる。コミュニケーションというやつです。そこに感染拡大の原因があるとにらみ、せめて「おおぜいくっつく」のはやめようね、ということになった。集団感染の三大要因は、「不特定多数の人が」「換気のわるい閉じた空間に」「密に集まって接触する」ことである。この密集、密閉、密接の要因を避けよと。いわゆる「三密回避」の原則です。

もしどうしても集まりたいなら、少人数で(十人以下に)、換気のよい開かれた場所で、ひととひととのあいだに間隔をあけて(1.5ないし2メートルの)、行動しなさいと。日本では行政当局が発する「三密回避」の遵守原則がマスメディアを通じて世間に浸透してきた。名づけると強制力がます。
 
ウイルス感染症流行下の人間行動に「世界規準」はまだないが、英語圏では、わが家にこもる、大集会を避ける、最低6フィートの距離を保つ、という三原則が推奨されている。社会的動物が相互に距離をたもつのであるから、これをソーシャル・ディスタンシング social distancing とよぶ。さっそく日本語にも「ソーシャル・ディスタンス」「社会的距離」という新語がはやりだす。年度末に流行語の賞をうけるかもしれません。しかしいかにも翻訳語然としていて、字づらだけからは意味がわかりにくい。うらに英語がはりついていて、はじめて流通するカタコトです。
 
台湾でひとあし早くプロ野球の試合が再開したとき、野球場のゆか面に観客はここに場所をしめなさいというしるしがついていて、漢字で「社交距離」と書いてあるのをTVニュースの画面でみた(5月12日)。おなじ訳語でも、漢字の本家はひとあじちがう。(*3)(*補記)
 

ソーシャル・ディスタンシング、離れなさいといわれても、積極的な接触によって(こそ)好意を表現しうるタイプの種族にとって、社交距離はほとんど息の根をとめかねない苦痛となる。わかっちゃいるけど、やめられないのである。なにごとによらず、ひかえめを貴ぶ「平たい顔族」からみれば、いかにも気の毒というほかない。(*4)
このたびのはやりやまいは「濃厚接触」のみならず大気中の飛沫感染もおそろしいところが厄介です。そこへもってきて無症状感染者がどれだけいるかわからないときた。三十六計逃ぐるに如かず。ひとを見たらウイルスと思え、というのでは動物行動学者でなくともなげきたくなりますよ。
 

エイズ(AIDS、HIV感染症、後天性免疫不全症候群)の原因となるウイルスが発見されて、濃厚接触者に恐慌をきたしてから四十年ちかくなります。その治療ワクチンはいまだにありません。このヒト免疫不全ウイルス(HIV)はアフリカのチンパンジーに由来するという説が有力だそうです。そういえば人類史上くりかえし発生した「伝染病」大流行(パンデミック)は、いづれもヒト以外の動物由来の感染症でありました。よく知られた例でいえば、
  蚊 → マラリア
  鼠、犬、猫 → ペスト
  ?(駱駝?) → 天然痘
なおコレラ菌は自然界ではヒトにだけ感染するようで、ヒトのあいだに流行しているときのほか、どこにいるのかわからないという厄介者。さて二十世紀はインフルエンザの時代です。そこへコロナウイルス登場。サース(SARS)だのマース(MERS)だの、流行の間隔がどんどんみじかくなってきた。ウイルスは鳥からきたとかコウモリからくるのだとか。統計のうえで世界一多数の死亡者をだしているのは、蚊などの昆虫なのだそうですね。それはそれで別の問題が依然として存在することをあかすものである。
 

ぼーっと生きているとチコちゃんに叱られる。……のみならず、生きとし生けるものに追いこされてゆきます。(*5)
ユズの花が実をむすびはじめました。(写真1枚目と2枚目、横浜市港北区にて2020年5月24日大井剛撮影)
カキもいつのまにか結果しています。(写真3枚目と4枚目、5月24日撮影)
アゲハの鳥糞態幼虫は食慾旺盛です。(写真5枚目、同日)
アゲハの青虫態幼虫がついに現れました。(写真6枚目、同日)
ユズの葉はアゲハに食われたくらいでは動揺しません。

目にみえぬ敵とのおつきあい。ウイルスが目にみえないだけではない。となりのひとにいるかもしれないし、ペットのネコにひそんでいるかもしれない。そのうえ新手のウイルスが自然界のどこからくるかわからない。生きてゆくために、いかに生くべきか。

ウイルスとのあいだに適切な「社交距離」をもとめよう。社交感覚からいえば、「社交間隔」はいかが。
(大井 剛)

(*1)『金剛般若波羅蜜経』サンスクリット原典からの現代日本語訳。二重括弧(『 』)の部分を改行し、「乃至」にふりがなをふった。日本で古来よみならわされた漢訳の用語におきかえれば、「求道者」は「菩薩」、「師」は「仏」「世尊」など、「生きとし生ける者」は「一切衆生」、「永遠の平安に導き入れる」は「滅度する」にあたる。「スプーティ」は「須菩提」と訳される。
岩波文庫版は、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳『金剛般若波羅蜜経』(この経典名じたい漢訳である)の漢文とその訓読(書き下し)文を対照してあり、まことに便利。その漢訳は『大正新修大蔵経』のテクストを転載するが、いまや
  ウェブ版『大正新脩大藏經テキストデータベース』The SAT Daizokyo Text 
  Database
に全文掲載されている。

(*2) 二十世紀後半の日本では小売店の会計台のことを「レジ」「レジだい」といい、その係員を「レジがかり」とよぶ。おそらく米語 a [cash] register (金銭登録機)からきている。二十一世紀にいたり大型小売店舗で「Casher」という表示がめだつようになった。とくに海外からの観光客あいてに、a casher (精算係)、a cash [casher's] desk (レジ台)を意識したためであろう。現金ばらいでない、信用カード(クレジット)や前払いカード(プリペイド)でもキャッシュなのは、ことばの慣用というものである。

(*3)「社交距離」台湾CDC すなわち衛生福利部 疾病管制署(Taiwan Centers for Disease Control)のウェブサイト「嚴重特殊傳染性肺炎(COVID-19, 武漢肺炎)」につぎのPDFファイルがある。
「「COVID-19(武漢肺炎)」因應指引:社交距離注意事項」109年4月01日訂定、4月10日修訂。(「109年」は中華民国一百九年で西暦2020年にあたる)

(*4)「平たい顔族」は、ヤマザキ・マリ『テルマエ・ロマエ』において古代ローマ人ルシウスが現代日本人をよぶ呼称。ルシウス Lucius という名は、古典ラテン語なら「ルキウス」、俗ラテン語以降のイタリア語なら「ルチウス」と発音すべきところ、作者はわざとルシウスの音のひびきを尊重したそうです。

(*5)「チコちゃんに叱られる!」は、NHK総合TVの放送番組名。やぼな講釈はぬきにして、悟りの道にあゆもう。

『金剛般若経』に、求道者(「菩薩」)の生きかたをすこし詳しく説く箇所をみよう。(岩波文庫版 pp.45-47「3」)
 師はこのように話し出された
「スプーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。すなわち、スプーティよ--
  『およそ生きもののなかまに含められるかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれず自から生まれ出たもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでも無いのでもないもの、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、《悩みのない永遠の平安》という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない。』と。
 それはなぜかというと、スプーティよ、もしも求道者が、《生きているものという思い》をおこすとすれば、もはやかれは求道者とは言われないからだ。
 それはなぜかというと、スプーティよ、誰でも《自我という思い》をおこしたり、《生きているものという思い》や、《個体という思い》や、《個人という思い》などをおこしたりするものは、もはや求道者とは言われないからだ。[師の言は「4」につづく]

 同書の「註」にしたがって、現代日本語訳の意味するところをさぐる。(サンスクリットの m と n と s の下にドットがつくばあい、それぞれの字のつぎに*をおいた)
(註30) 「他から生まれず自から生まれ出たもの」-「原語は upapāduka である。普通は「化生(
けしょう)」と漢訳されている。托する所なしに忽然として生れたものである。神々(諸天)や宇宙の最初の人などはこれに属する。」
(註32) 「悩みのない永遠の平安」-「註(29)参照」
(註29) 「無余涅槃」-「原語は anupadhiśes*a-nirvān*a である。本書では、「悩みのない永遠の平安」と訳してある。仏教徒の理想であるニルヴァーナに二種ある中の一である。一切の煩悩を断ち切って未来の生死の原因を無くした者が、なお体だけを残しているのを有余涅槃と言い、その体までも無くしたとき、無余涅槃という。具体的に言えば、無余涅槃とは迷いが全く無い状態で死し、永遠の真理に還って一体となったことを指している。」
(註34) 「生きているものという思い」-「原語 sattva-sam*jña の訳。実体としての生きものが実存するという考えを指す。この他、自我 ātman・個体 jīva・個人 pudgala などを実体視するのは求道者の態度としてふさわしくないと言われている。」
(註35) 「個体」-その原語は jīva で、もとは「生命」を意味するが、インド思想一般では「個体」の意味に用いられている。ここでもそれを意味するにちがいない。(仏教で生命原理を意味する語としては jīvitendriya「命根」があるから、これとは区別せねばならぬ。)」
(註36) 「ここで挙げられている「生きているもの」(sattva)、「自我」(ātman)、「個体」(jīva)、「個人」(pudgala)は、いずれも霊魂または人格主体を意味するものとして仏教の内外で考えられていたものなのである。」
 
【*補記】 人と人とのあいだの関係をさしてソーシャル social という語をもちいている。それ自体はまちがいではない。しかし、現実にはたとえば間隔を6フィートあけなさいと数値目標をあげて命ずるのであるから、それは物理的距離であり、肉体の間隔をあけることをいうなら physical distancing であろう。
 
かたやソーシャル・ディスタンス social distance といえば、それこそ社会的な距離であるから、人と人とのあいだの関係が親密であるか疎遠であるかというはなしになる。遠くはなれた恋人と電車にのりあわせた見ず知らずの人とどちらが近いか。こうなると最低6フィート、あるいは1.5メートルないし2メートル云々とは視点がまるきり違ってくる。
 
ずいぶんあとになってから知ったことに、WHO(世界保健機関)は早い段階から社交間隔のあけかたをさす用語を social distancing から physical distancing にあらためるよう推奨していた (2020年3月)。その理由が、人間にとって社会的な social むすびつき contact / connections は重要だから、というのに驚いた。ソーシャルなディスタンスをとるという表現から、社会からの疎外、おのれの孤立へと連想するひとが、すくなからずいた証拠である。
 
ソーシャル・ディスタンスからただちに社交ダンス social dance をおもいうかべたやからは、かなり浮世ばなれしていたとみえる。(2021年10月1日記)

(更新記録: 2020年5月24日起稿、5月26日公開、6月7日、7月22日修訂、2021年10月1日補記、11月12日修訂)