文芸春秋4月号の紹介する「死への道程」石原慎太郎(絶筆)に目を通している。
感動というには距離のある、慎太郎さんの思いに触れるという言葉とは違う何かを感じている。
衝動と言うほどではないが、目を通す作業を中断して書きたくなった。
宣告を受けて死に向き合う石原慎太郎の姿を、死に恐怖する弱い一人の人間と捉えて綴る「死への道程」。
その文章は、死に向き合いながら作家石原慎太郎の、作品に懇親を尽くす姿を映す。 90歳を前にして死と向き合いながら尚、石原慎太郎のプライドを揺るがせない意志を見せている。
私も幾度も死にそうな目に合ってきて、癌にもなった。その癌の処置後、半年もたたず転移した症状(痛み)が現れ、一年も経ぬ間の転移癌、腎臓癌摘出手術を受ける。20年前はまだ癌は怖かった。
私の感じる死への思いと、慎太郎さんの綴る死への思いとの量に開きがある。
その差が私の違和感を醸しているようだ。
その開きに目を凝らしていると、物事を捉える知覚に差があるように見える。
死に対して持つ私の知覚の量との差を、見せつけているようだ。
その差の開きが私の感覚に恥辱として作用し、私の負けん気が癇癪を起している事のようだ。 身の程も知らずに。
かつて、白洲次郎というダンディーが居た。
自分を主張する服装に身を包み、背筋を伸ばしてまっすぐ前を向く慎太郎さんの姿はダンディーであった。
ダンディーは自己主張を持つ。 少しばかりの傲慢さも必要とするらしい。
まっすぐ向いた眼は社会を捉える。
社会を捉えるには知覚が必要だ。 おのれ自身で磨きぬいた知覚であろう。
二人の後に続くダンディーの顔を見たい。
松尾洋