わたしはアメリカに行けたら、ぜひとも訪れたい場所がスミソニアン博物館だった。
東京で学生しているときには、金が無いので、上野の博物館で長時間うろついていた。
そんな博物館好きが、なぜスミソニアン博物館かというと、わたしが小学生のころの出来事にさかのぼる。
博多には博多山笠というお祭りがある。毎年7月1日から15日となっている
そして近隣の町で構成される流(ながれ)ごとに山笠を櫛田神社に奉納し、所定の順路を担いで時間競争する「追い山」が行われる。わたしの家は土居流れに属していた。
各地に伝わる素戔嗚尊(スサノオノミコト)に対して奉納される祇園祭の一つである。
この動画は、櫛田神社を出てから走り出す追い山の場面である。
わたしが小学生のときは、櫛田神社の隣の冷泉小学校だったから、山笠の追い山前日から学校は休みで、小学生のクセに徹夜で開いている映画館に行ったりして"中州で遊んだ"から、いま素戔嗚尊のバチがあたって?持病に苦しんでいる。
この動画には年寄りと子供しか映ってないが、これは先走りという子供と年寄りが中心のグループだ。
この後に大人の流れ本体が追い付いてくるが、車もついてないおよそ1トンもの神輿を担ぎあげるのだから、たとえば市内電車道を横切るときに、わずかに飛び出ている線路にぶつかってなんどもやり直して悪戦苦闘する。だから追い付かれることは無い。
ところで動画に映っている「ふんどし」という姿は間違っている。「ふんどし」は下着で、「締め込み」は神事の儀礼装束であり、大きな違いがある。
地鎮の神事である相撲では、関取が本場所で締める絹製廻しを「締込」と呼んでいるが、こちらも儀礼装束なのだ。
とはいえ、『締め込み姿』というのはは西洋文化にはそぐわないものらしく、戦後すぐの昭和24年頃には、新聞への投書にご婦人方から強硬な”フンドシ廃止論”が掲載され、紙面を大いににぎわせた。
中には「外人観光客が悪い印象を持つのではないか」と国際的に事態を憂慮する人もいて、攻めるご婦人方、守る博多祇園山笠振興期成会(現在の博多祇園山笠振興会の前身)との間で激しい論戦が行われたという。
そういう背景のときに、追い山で、わたしが走っているのを、外国人の男性が8ミリ映写機で真横から撮りながら付いてくる。
土民風の姿が珍しいのか、それともわたしがポッチャリしていて被写体として気に入ったのかもしれない。
そうしてゴールまでずっとわたしに付きまとったのだが、あとで考えると、戦後すぐの時代に個人で8ミリを趣味でこんなに熱心に撮るとは思えなかった。何かのドキュメンタリーかも、と思ってスミソニアン博物館のことを調べた。
すると戦後の日本関係資料は山ほどあることが解り、そうなると探し出せば70年振りに自分の姿を見ることが出来るかも。
と気持ちが弾んだが、そんな事しなくて良かったと気が付いた。
ちょっと書くのをためらうが、追い山は櫛田神社を出て右に曲がり、今国体道路になっている道から左に曲がる。
この曲がり角は全体が見えるし、担ぎ手が交代したりしてちょっともたつくから、大観衆が待機している。
そこで走り始めたわたしの・・・締め込みがハラリとほどけた・・・ドッと沸き上がる歓声。
わたしは後ろに引きずっている布を手繰り寄せつつ、着付けしながら走った。
もう頭が真っ白になったのは、その日は学校が休みだから、きっと同級生の女の子が大勢応援していた・・・と思うと、もうこのまま家に帰って引きこもろうか、あるいは転校すべきかと。
当時、わたしの家は絹織物を扱っており、寝巻の紐も絹だったから緩むことは無かった。
が、締め込みは戦後すぐで、町内から支給されたのは、大人用は木綿で大丈夫だが、子供用は人絹と呼ばれた合成繊維の安物で、手触りもヌルヌルしてすぐに結び目がほどけた。
その後、かなり大きくなって家族で温泉に泊まるような場合もまだ人絹だったから、朝起きるとみんな前をはだけている状態だった。
だから、その外国人が、このあられもない場面から撮って、スミソニアン博物館に収納されているかもしれず、そうなると素戔嗚尊から、"国賊! このバカチンが!"とさらなるバチがあてられるかもしれない。
だいたい、スマホが無い時代でよかった。
今なら、競って同級生がユーチューバーになって投稿するかもしれない。
タイトルは、"ちょっとだけよ"、とか。😱
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