身近な物の大きさを、記憶だけで当てられるだろうか。
そんなシンプルなゲームを遊ぶオモコロチャンネルの動画を見た。
遊んでいるのは「ミリメモリー」。
1円玉やICカードなど、普段から目にしている物の長さを想像し、手元のカードを使って答えるゲームだ。見慣れた物なら、だいたい分かりそうな気がする。
ところが、これがなかなか当たらない。
そして動画では、やがて乳輪まで測り始める。
「見たことがある」と「大きさを知っている」は違う
私たちは毎日のように、電池や硬貨やペットボトルを見ている。それなのに、比較する物を取り上げられて「何ミリですか」と聞かれると、急に分からなくなる。
私たちは物を、寸法の一覧表として記憶しているわけではない。用途や手触り、周囲の物との関係などを含んだ、かなり大ざっぱなイメージとして覚えている。
「見たことがある」と「大きさを知っている」は、同じではない。
「ミリメモリー」を通して、その当たり前の事実を容赦なく可視化される。
硬貨は、ただの円板より大きく見えるのか
今、センディル・ムッライナタンとエルダー・シャフィールの『いつも「時間がない」あなたに――欠乏の行動経済学』を読んでいる。
この本では、お金、時間、食べ物、人とのつながりなど、「足りないもの」が人の注意を強く引きつける現象が扱われている。
そのなかで紹介されていたのが、子どもに硬貨の大きさを推定させる実験だった。
ブルーナーとグッドマンによる1947年の研究では、子どもたちは同じ大きさの無価値な円板よりも、硬貨を大きく見積もった。さらに、貧しい家庭の子どもたちは、裕福な家庭の子どもたちより硬貨を大きく見積もる傾向を示した。
研究者たちは、物理的な大きさだけでなく、その物が持つ価値や、それをどれほど必要としているかが、大きさの判断に入り込んだのではないかと考えた。
つまり人は、目の前の物を物差しだけで見ているとは限らない。
その物が自分にとって何を意味するのかまで含めて、世界を測っている可能性がある。
乳輪を大きく見積もっても、欠乏しているとは限らない
ここで話を動画へ戻したい。
「ミリメモリー」で大きさを外すことと、欠乏によって価値ある物を大きく見積もることは、よく似ている。しかし、同じ現象だと断定することはできない。
動画で答えが外れる理由には、いくつもの候補がある。
- そもそも寸法を覚えたことがない
- 比較対象がないため、絶対的な長さへ変換できない
- 直前に見た物や、ほかの人の答えに引っ張られる
- 笑いや競争のある場で、冷静な判断が難しくなる
動画では、空腹や金銭的な不足などを条件として操作していない。したがって、誤答を「欠乏の効果」と説明することはできない。
何より、乳輪を大きく見積もったからといって、その人が乳輪を欠乏しているとは限らない。

硬貨の大きさは、本書への入口にすぎない
欠乏は、次の欠乏を連れてくる
トンネルの外から見てもらう
しかし同時に、自分の注意がその問題に占拠され、ほかのものが見えなくなっている可能性もある。
そんなときに必要なのは、さらに強く集中することではなく、一度トンネルの外から見てもらうことなのかもしれない。
ただし、乳輪については、トンネルの内外を問わず、必要がなければ測らなくていい。

