一言で「ハゲ」といっても、その解釈いかんではフサフサの人間をも「ハゲ」に仕立て上げることができる。

 

 また、「悪いツルツルじゃないよ」と言ったところで、事実判断から価値判断を引き出そうとしている人たちには通用しない。

 逆に「もっとハゲなければならない」と戦争が起こることも考え得る。

 

 

 

 人間は対象に認識が従っていると思い込みがちだが、、認識に対象を従わせているにすぎない。だから対象が認識通りでないと間違っていると思い込む。寛容※に考えること(目的自体のあるがままを認識するように努めること)もなく、認識に対象を従わせるなら魔女狩りのような世界も論理的に可能な世界になる。

 

具体例としては他に「100日後に死ぬワニ」なんかも・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

魔女狩りみたいな二分法だと実像とは関係なく先入観を植え付けられているからこんな事件も起こるんだと思う。

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 選挙前などこういう刷り込みの印象操作が頻繁に起こる。

 

 

匿名人物Q

#本当に自民に勝たせていいですか こんなハッシュタグもバンドワゴン効果狙いだよね。

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 こんな研究結果もある。注目される人が好きなのは本能的なものなのかもしれない。

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    (^^)v

キラ <( )   +  キラ 

+  +/ ≧ 

ケインズの美人投票なんかも似ていると思う。

 しかしこのような表現の自由も事実に基づくものであれば保障されるべきものである。

 表現の自由は経済的自由と比較すれば優越的地位にあるとされる(二重の基準論)。経済的自由を制限する場合、原則合憲の推定が働くが、精神的自由を制限する場合、原則違憲の推定が働く考えだが、この基準だと表現の自由制限には、「治安を脅かす危険がある」というような抽象的な理由では足りず、「明白かつ現在の危険」が必要であるとされる。

 「疑わしきは治安に」ではなく「疑わしきは自由に」を原則にするということだ。

 表現の自由を特に重く保障する根拠として、通常、個人の人格発展や自己実現のための必要性と、開かれた議論によって民主政治を可能にするという自己統治の価値とがあげられる。

 前者については、個人の自己実現のためにどうしてどうして他の権利よりも表現の自由の方が重要だといえるのかという批判がなされている。諸権利の価値づけを客観的に決めることは不可能ではないかということであるが、これに対しては、そもそも基本的人権は諸個人がそれぞれに望む生き方を同等に保障するものではなく、他者を害していなくてもその生き方自体が誤っているという理由での制約を拒絶する権利であって、表現の自由への制約はこのような自律的判断能力を否定する根拠でなされる危険性が高いから、特に慎重に審査しなければならないのだという反論がなされている。

 さらに民主政治にとっての必要性については、経済的自由では規制されても、精神的自由が保障されている以上、民主政の機構により、当該立法を撤廃することにより回復できるが、精神的自由それ自体を否定すれば、、もはや民主政は民主的専制と呼ばれるものとなり、立法を撤廃することはできず、不当な制限を是正できなくなってしまうので、民主的専制を肯定する共産主義でもない限り、その必要性を認めることに異論はない。

 自由が保障されているものでなければ、「萎縮効果(chilling effecto)」によりお上に忖度して自主規制というお話になる。

 

 

 動画でも「知る権利」ということが挙げられているが、内容中立規制といっても「知る権利」を侵害する「内容を規制」する場合は「人格的利益」と比較衡量しても広く認められるべきものである。それでも人格的利益が侵害されていると社会的合意(多数決による法律)を優先させ、「知る権利」を制限してしまうと、「法律は法律だ」というナチスや「在るから思う」だけの共産党みたいな人がでてくるのではなかろうか?。

 

 

 

 

 

 

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