私のいとこ | 瀬戸際おじさんの徒然日記

東京の病院で、受け入の拒否が原因で女性が亡くなられて結果的に、母子の対面がかなわず、悲しい結果になったことが報道されていました。


このことで、親から聞いた私のいとこの記憶が蘇りました。


彼は父(私の母のいとこ)の顔を(写真でしか)知りません。


早稲田大学在学中に嘉納治五郎に、直接手ほどきを受けたほどの武勇者でしたが、結核のため、終戦直前に妻(私の父の姉)が彼を妊娠中に逝ってしまいました。


今はもう,人の手に渡りましたが、甲陽園で、敷地内に松並木があるほどの広大な家屋敷で生まれ(私が六麓荘2000坪にこだわるのはこのため)ましたが、戦局が激しくなり、空襲で住まいを転々として、戦後残された家族はどのようなものであったか・・・・・と言いながら本人に聞くと、我家を含め周りに身内が多くいたので、それほど辛い思いはなく、けっこう楽しく暮らしていたと聞いております。

でも、心の底には人には言えない、悲しくつらいものがあったに違いありません。

その叔母も、4年前に88歳で旅立って往きました。


東京の、かの父子も早く幸せが訪れるることを願わずにはおられません。