たまには手入れを | 瀬戸際おじさんの徒然日記

我家には先祖伝来の、と言うのはちょっとオーバーですが、昔から日本刀が一振りあります。

一応、文部省が認めた外郭団体が、「青江」として認められ、名刀の資格をもった刀で、江戸時代の宝永頃(1700年)に、鑑定の権威者本阿弥家が「折紙」に「青江」と極め、徳川四天王の中の、ある大名家に伝来したことが記載されています。(本当のことを折紙つきという言葉はここからきている)

製作された時期は、鎌倉時代末期から南北朝の初期(あの有名な貞宗と同時代)です。制作場所は備中国の青江(現在の倉敷)。

姿は、重ねは薄く切っ先が延びて豪壮で覇気があり。

製作者は、元々3尺(90センチ)近くあった太刀を、戦国時代の戦法の変遷で2尺3寸(70センチ)に切り詰め短くした結果、製作者名が刻んでいるところまで切られ無銘になっています。

しかし、この刀と鍛えが同じ刀で、在銘の刀が現存すため、容易に極めることができます。

この刀が実際に激しい戦闘をくぐりぬけて来た証拠に、棟に大きな切り込み傷が残っており、一般的にこれほど棟に衝撃をあたえると折れてしまうそうです。それほどよく錬り鍛えられた刀です。

日本刀に生じた傷の中で許されるのはこの傷だけです。傷と言うよりも刀の用途として全うした名誉な負傷として尊敬に値する故にコレクターからは特に珍重されているようです。

この刀と同じ製作者か,極めて近い同派の刀工の作で、丸亀藩は京極家に伝わった「二ッカリ青江」という刀があります。

この刀は足利将軍家からいろいろな武将に伝わり秀吉を経て丹羽長秀にたどるまでに、奇怪な伝説を生みました。

 江州は浅井氏の領内での出来事.武将が夜道を歩いている時、娘を連れた母親と出会い、「この娘を抱けよ」と寄ってきました。殺気を感じた武将はこの2人をとっさに刀で真っ二つに切捨てました。母親の頭が落ちる時、顔が二ッカリ笑ったといいます。翌朝その場所へ確認に行くと、古びた石灯籠が2台真っ二つに割れていたということです。

この刀を使った武将の勇気と切れ味を賞賛し、その時から「二ッカリ青江」という称号が与えらました。吉宗が整理した名物台帳の中でも「大名物」の最高ランクになっています。

我家の刀はそれほど言い伝えのある刀ではありませんが、でもそう誰でも入手できる刀ではないと思っています。これを入手した我家の御先祖様に感謝、感謝。

でも春に手入れをしたきりでその後一度もしておりません。こんな情けない子孫をもって嘆いておられることやら。

あの憎たらしい補佐をこの刀で真っ二つに叩き切ったろか。でもあんな補佐を切ったら、刀が泣くやろな。