(前回のつづき)
夢うつつで歯を磨く夜勤明け
めざましテレビでイチローが自主トレに励む姿をぼんやりと眺める
イチローが内角球を巧みなバットさばきでヒッティング
いっぽう私は奥歯の内側を巧みな歯ブラシさばきでブラッシング
イチローがロッカールームで脚を入念にマッサージ
かたや私は洗面台で歯茎を入念にマッサージ
するとお口いっぱいに懐かしい味がひろがり
うがいをして水を吐き出すと
それは水ではなく鮮血だ
甘く切ない鉄錆の味
私は気づく
手にしているのは歯ブラシではなく
顔剃り用のカミソリであったことに
削げた歯茎がぶら下がり
茫然と立ち尽くす夜勤明け
私は血を噴き出し笑う
鏡の向こうに酔っぱらい
情けない、情けないよと
涙を流して笑う夜勤明け
イチローはバットをぶうらり揺らす
いっぽう私は歯肉をぶうらり揺らす
イチローの年俸は13億円
一試合あたり800万円
一打席あたり150万円
それがどうした夜勤明け
俺だって打てるさ
止まった的ならな
スイカとか
いま目の前で
スースー寝息を立てている
かわいい
君の
頭なら…
私はバットを頭上高く振りかざし、暫しのあいだ目を閉じた
自分の手が可笑しいくらい震えているのが分かった
そして私に向かって手かざしの浄霊を続ける重永の肩口に、バットを振り下ろそうとしたその瞬間
ドン、と誰かが私を突き飛ばした
小西先生だ
それから数人の女子が重永を庇うように取り囲み
泣きながら「ej君、もうやめて!」と叫んだ
それに続き、男子たちも「もういいよ、やり過ぎだろej、オレらは気が済んだからもうやめてくれよ」と口々に言いはじめた
少年院送りの肚を決めていた私は心底安堵したものの、いっぽうで
クラスの皆の手のひらの返しようと、一瞬垣間見えた重永の勝ち誇ったような表情に
高ぶった気持ちの遣り場も無く、保健室の窓ガラスを叩き割り、中にバットを放り込んだ
静まり返る小学校の運動場に、カランカラン、と金属バットの乾いた音だけが響き渡る
一同は茫然と立ち尽くしていたが、そのまま校門を出て帰ろうとする私に、ようやく教頭が追いすがり
何かと思えば「オイ君、こんなことしてタダで済むと思っているのか!ガラス代は弁償してもらうぞ」と実にクダラナイことを言って来るので
「はあ、すんません。いくらですか、払いますよ」と財布を出してカネを渡そうとしたら
教頭はまさか小学生が何万も現金を所持しているとは思いもよらなかったらしく
「いや…いまいくらと言われても、分からない」としどろもどろになったので
「ナンボか分からん請求てどういうことじゃッ!オドレ、うちの家にアヤつけるつもりかッ!」と捲し立てたら
教頭はもうそれ以上追っては来なかった
私は小学五年生あたりから、「いっしょに遊んでくれる坊っちゃんたちに、美味いものでもご馳走してやれ」と
つねに2,3万は持っているよう、父親から現金を渡されていたのだ
学校帰りには皆をお好み焼きや、特に親しい友達なら馴染みの寿司屋にもよく連れて行ったものだ
それだけに、仲間たちの変わり身の早さには子供心ながら深く落胆を覚えた
家に帰っても興奮はやまず、翌朝眠りから覚めて、ようやく手の震えが治まっていることに気づいた
私はそのまま数日学校を休み、再び登校してみると
驚くべきことに重永の性格が一変していた
一口で言えば、薄気味の悪いぐらい「いいひと」になっていたのだ
あまり保健室に近づきたくはなかったが、ある時どうしても頭痛が治まらず、アスピリンを貰いに行ったら
「かわいそう…」と頭を撫でてきたので思わず手を払いのけると
重永は涙ぐんで「ej君、このあいだは本当にごめんなさい。どうすれば先生のことを赦してくれますか?」と土下座までしようとする
私は何とか押し留め「もうわかりましたから!こちらこそすみませんでした!いいからとにかく頭を上げて下さいよ!」と言うほかなかった
私に限らず、どの生徒にも同じ態度で接し、当初は皆戸惑いを隠せないようだったが
しだいに重永の変化は好ましいものとして受け入れられていった
この豹変ぶりが本心からのものなのか、それとも自らの保身を考えての計算なのか、俄に判断はしかねたが
いずれにしても、私には重永が正常な神経の持ち主とはどうしても思えず、きちんと和解する機会を卒業まで避け続けた
これについては、今となっては悔やんでも悔やみ切れない
小学校の卒業式のあと、クラスの女子たちが重永と抱き合って泣いていた
その横を通り過ぎようとした時、一瞬目が合い、重永はにっこり微笑みかけてきたが、私は気づかない振りをした
私が重永を見たのはそれが最期である
…実を言えば、私はここで物語を終わりにしたいと思っていた
だがやはり真実を書き記すことが、ここまで辛抱づよく読んでくれた、ごく少数の読者たちへの誠意というものだろう
呪いは我々の恩襲を遥かに超えた次元で存在していたのである
私たちがそれぞれの中学に進学し、半年ほど経ったある日
夜明け前に家の電話が鳴った
携帯電話がまだクーラーボックス大だった時代の話
朝の5時前に電話が掛かってくること自体、尋常ではない
私は訝しげに電話に出た
「ejか?おい新聞みたか!」
「なんやお前か。朝っぱらからどないしたんや…寝とったわ」
「重永が死んだぞ」
「えッ!重永って、あの重永か!?」
「そうだよ決まってるだろej、ちゃんと起きてるか?」
「いやいま目が覚めたわ…で、なんで?」
「息子に殺された」
「そりゃまた…一体なぜ?」
「なんでなんでって、俺が知るかよ。新聞にそう書いてあんだよ!お前んちK新聞か?」
「いや、違うな。とにかく読んで見るわ、また学校で話そう」
私は電話を切り、届いたばかりのA新聞を開いたが、地方面にも社会面にもそれらしき記事は見いだせない
そこで寝間着のまま駅のスタンドへ走り、K新聞を買い求め、その場で貪り読んだ
地方面下段、およそ20行にわたって、その禍々しい事件を報じる記事に目が釘付けになり
朝の5時、着の身着のままの私は、駅の真ん中で茫然と立ち尽くし、その場をしばらく動くことが出来なかったのである。
(つづく)