まぶたがわたしを閉じてから -3ページ目
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(前回のつづき)

当欄を書くにあたり、図書館で当時のK新聞縮刷版をもう一度確認してみた



加害者を含む関係者のプライバシーに配慮しつつ、記事を以下に要約する



【小学校養護教諭、自宅で殺される】



『17日夜10時ごろ、●●署に「母親をバットで殴って殺した」との通報が入り、署員が急行したところ、●●市立●●小学校養護教諭重永光子さん(49)が自宅の居間で頭部と顔面を激しく殴打され死亡していることが確認された。警察はその場にいた長男(19)に任意同行を求め、現在署で詳しく事情を聞いている。』



重永が自分の息子にバットで撲殺されるという衝撃的なニュースは、当時12歳の私を大きく揺さぶった



凶器のバットとは、ソフトボール大会でオレが手にした、あのバットだろうか…?



そう考えると、あの日震える手でグリップを握りしめた感覚が再び蘇り、私は手のひらにびっしょりと汗をかいた



事件からおよそ1週間後、卒業生同士の情報交換によってもたらされた続報は、さらに痛ましいものだった



重永は夫と性格の不一致から離婚し、その後は女手ひとつで一人息子を育てており



長男は医大進学を目指していたものの、受験に失敗し、この春からは宅浪生活を送っていたそうだ



事件現場は凄惨を極め、重永の長男は母親の頭をメッタ打ちにした後



さらにそのバットをガスレンジで真っ赤になるまで焙り、母親の顔面を「原形をとどめず、被害者の特定に支障を来すほど」殴り続け



凶器の金属バットは完全に折れ曲がった状態で遺体の上に放置されていたらしい



なぜ長男がそこまで激しい怨恨を実の母親に抱くに至ったのか、詳しい原因まではわからないが



重永のあの性格を考えれば、自宅に籠って浪人生活を続ける長男との間に確執が生じていたとしても、何ら不思議ではない



現場の居間には、根元まで溶けた9本のロウソクを刺したまま、手付かずのバースデーケーキが残されていたそうだ



偶然にも重永と長男は1日違いの生まれで、事件が起こった日はちょうど長男の誕生日に当たり



母子二人きりの、つつましい誕生日祝いの予定だったと思われる



重永は49歳、長男は19歳の誕生日で9本のロウソク



この話を聞かされた私は、一瞬背筋が凍る思いがした



なぜならあの夜、神社の大木に我々が打ち付けた藁人形の顔には、次のような御札が貼られていたからだ



鬼鬼鬼鬼北鬼鬼鬼鬼
鬼                     鬼
鬼    重永光子   鬼
西   丑  人形書    東
鬼 享年四十九歳  鬼
鬼               鬼
鬼鬼鬼鬼南鬼鬼鬼鬼



丑の刻参りを実行した時点で、実際には重永の年齢は48歳だった



そして、彼女が49歳を迎えたまさにその未明にかけて、惨劇は起こった



母子水入らずでバースデーを祝うはずのその夜に…



この事実をどう解釈すべきだろうか?



後日、あの「丑の刻参り実行委員会」の面々で集まったが



皆、言葉少なで何を話したかはもう忘れてしまった



ただ「誰か面会に行って息子にサインバット貰って来いや」と、私がブラックジョークを口にすると



皆がカラカラと虚ろな笑い声を立てたことだけがいまも私の耳に残っている



果たして呪いなど現実に存在するのだろうか?



私はこう考える



呪いなどありはしない



この世に神も仏もありはしない



霊も超能力も、あらゆる超自然的な力などありはしない



一連の事件は不幸な偶然の産物である



だが私はこうも考える



果たして「偶然」とは何を意味するのか



偶然とはたんに、「不可知の必然」に過ぎないのではないだろうか?



あの日、私に重永をバットで殴る勇気はなかった



そしてそのことが一旦は私と重永を救ったはずだった



あの時重永が一瞬見せた勝ち誇った表情を、私は忘れられない



重永にとって、それは勝利体験として深く心に刻まれたはずである



そしてここから先はまったくの私の想像になる



しかし私にとって、あの惨劇を説明できる筋書きはこうとしか思えないのである



誕生日祝いの夜、二人は何らかの理由をきっかけに激しい口論となり



重永はあの日と同じように、我が息子にバットを突きつけた、なぜならかつての勝利体験が心の奥に刻まれていたから



殴れるものなら殴ってみろよ、と



そして、呪いのバットはファーストストライクこそ見逃したが



二度目は獲物を逃しはしなかった…



ひとつの出来事の裏側には、無数の数え切れない潜在的な原因が存在する



重永の人格や母子関係、及び私たちクラスとの確執が、この事件の背景であることは疑いのない事実だろう



だがそれだけではこのような惨劇には至らなかったのではないだろうか?



呪いという行為によって、それまでは孤立して存在していたはずのさまざまな背景を、一挙に因果関係として結びつけてしまったのではないだろうか?



呪いという行為によって、重永の人生におけるさまざまの偶然を必然へと結びつけ、生から死へ直行するハイウェイを敷いてしまったのではないだろうか?



偶然即必然、私にはこう思えてならないのである



このブログが公開される段取りを考えてみる



私は偶然、調べものをしていて誰かのブログに行き当たり、自分も始めてみようと思い立った



私は偶然、アメーバにたどり着いた



私は偶然、このような体験を経ていた



以上の偶然が重なってこの記事へとまとまるに至り



そしてあなたは偶然私のブログを知り、この記事を御覧になることに相成ったのである



果たしてこれらの偶然を結びつけたものは何だろうか



これも呪いのつづきだろうか



だとすれば



いまこれを御覧になっているあなたへと



呪いのバトンは手渡されたことになる。



(ノ´▽`)ノ ⌒(呪)(完)