先日、役所から何やらオレンジ色の封書が届いた。

今頃何だろうと開けて見ると何とこれが「後期高齢者医療保険資格取得のお知らせ」だってよ。

俺は元来能天気だから、自分が既に老人である自覚も無く、自分には縁の無いことと、極めて普通のオッサンとして生き、振る舞い、生活して来た、老人なんて露知らずだ。

それがいきなりお前は老人でしかも後期高齢者だなんて勝手に分類されてジジイ扱いだ。

何かの間違いじゃないか、あんまりじゃないかと書類を破り捨ててやろうかとも思ったが、そこは大人の分別、一々役所に腹を立ててもしょうがない、考えた末に受け入れる事にした。

確かに俺は団塊の世代の中心、核の部分にいて日本の高度成長期には都合の良い労働者として、また大量消費の担い手としてもてはやされ、やがて時が過ぎると今度は年金を食い荒らす厄介者となった。

でもそれは不可抗力であって、何も望んでそうなった訳じゃない。

抵抗を感じながらもこの数日間、この年齢に至る過去や、経緯を振り返って、その長い年月に改めて思いを致した、どうやら随分と時間が経過したようだ。

そうなんだ、最近訳の分からぬ疲労を感じるのはもしかしたら歳を取ったのかもしれない。

思い出や感傷が重い荷物となって身体におんぶお化けのようにまとわりついて離れないのも俺が歳を取ったからなのか?

アニメやコミック、映画や最新のポップス、そして文化に身を置いて、しかもウォーキングや筋トレにせいを出してる、どこにも老人の兆候や要素などありはしない、等と思っていたのはどうも俺の時代錯誤の妄想だったらしい。

認めたく無かった、ただそれだけなんだ、打ちのめされたね。

しかも気が付いたら自称オッサンで居られるのも後一日しか無い。

明日十四日は俺の誕生日なんだよ。

明日からは強制的に日本国から認知された後期高齢者になる。

もしかしたら覚悟が必要だ。

これまではどう生きるべきか、明日の為な何をやろうかという事を第一義に考えてきた。

だが明日からはどう死ぬべきか、どう他人様に迷惑をかけずに生きられるか、そんな事を考えなきゃいけないのか、なんて思いを致す毎日になるのか?

いやどうでもいい。

確かに同年代の奴らが最近やたらと死んでくれる。

だが俺は未だだ、まだ精神的肉体的にくたばっちゃいない。

毎日15000歩のウォーキングもこなしているし、好奇心が衰えた訳でもない、これからも俺は俺らしく生きるしかないんじやないなかな。

そして待ち望んでいた庭の木蓮が花を咲かせた。

今家には独身の息子殿が一人いるだけだ。

彼は俺の誕生日等に初めから関心は無いから、俺の誕生日を祝ってくれるのこの木蓮だけだ。

毎年俺の誕生日に大輪の花を溢れる様に咲かせてくれる。

此奴は曙だ、白い乱舞、風にゆれながらの協奏曲、そして賑わった末、あっという間に散って行く。

こいつに俺の人生の明示があるんじやないかと思う。

そうなんだよ潔く散っても来年にはまた白く咲き誇るんだ。

根底に儚さと活力が同居してさ、希望があるんだよ。

これが俺の家として自慢の花さ。

俺もこいつの言う事を聞いてて明日から老人になる覚悟を決めた。

別に諦めの境地に至った訳じゃない。

だから、もう一度言う、俺はそう簡単にくたばらねえぞ。

儚さも強さも生きる辛さもさりげなく纏った粋なジジイを目指そうじゃないか。
















明日75歳になります。

by  konoe73