私の叔父も その名が刻まれてる沖縄の
平和の礎
敗戦から78年 今年も慰霊の日を迎えた。
仕事で那覇に住んでた時は 毎年摩文仁の丘に
足を運んでいた。
叔父とは勿論面識はない。
ガキの頃 じっちゃん家に行くと いつも その
叔父の写真が目に入った。
直ぐ下の弟だ と親父から 沖縄で戦死したと…
骨箱には小さな石ころが数個入っていただけだったと ばあちゃんの話。
先の戦争では 戦死しても まともに遺骨なんか
帰って来やしない。
叔父は沖縄の どこで亡くなったかも分からない。
それでも 足腰が達者な内は
毎年沖縄に行くのを欠かさなかった祖父母夫婦
息子3人を戦場に送って 1人だけ帰って来なかった。
帰って来たのは 石ころ だった
笑えない話しだが
祖父母は沖縄に通い続けた
先の戦争で 唯一地上戦になった沖縄
日本兵より地元住民の方が死者数が多い。
何故か?
アメリカ軍の艦砲射撃と地上戦から
ガマ(防空壕代りの天然の洞窟)に退避してた住民たちを追い出して 日本兵が自分たちだけ身を守ろうとしたからだ。
この事は沖縄の人々の その後の意識を決定した。
いざとなると 軍隊は自分たち住民を守ってはくれない。 反戦 反基地へ
自分が暮らして所が 悲惨極まりない戦場になった沖縄
当時の日本政府と旧日本軍は沖縄を
本土防衛に かこつけて 沖縄を捨て石にした。
見殺しにした。
今私たちが生まれて 今生きてられるのは そうした過去のお陰なのだ。
この過去を本土の私たちは決して忘れてはならない。 歴史の彼方に追いやってはならない。
だから本土の人間は 沖縄に足を向けて寝られない。