キャリアウーマンは遠い道
予備校に通い共通一次を受け、次は2次試験で東京受験だと息巻く時、父が急に倒れた。
肝硬変で腹水貯留もあり、もう長くはないと母から説明受ける。
母から更なる試練が私に与えられた。
母「もう、あなたを学校へ行かせる余力はないのよ。すぐに働いてちょうだい。」
冷酷な言葉でお先真っ暗。エーっ、この私が大学進学できない?
あり得ない。働く?
あり得ない。キャリアウーマンは大学へ行くのよー!
私の人生はどうなるの!!!
窮地にたつと人はどんなことも可能となるようだ。
そうだ、自宅から通えてアルバイトすれば学校へ行ける。だが、3月にどこが受けてくれるのか。定員割れの2次試験募集の学校は幾つもあったが、私の条件では学費が安く、自宅からの通学可能なこと。この条件では看護専門学校しかなかった。これで母も許してくれるだろう。
すぐに入学決定し4月に無事入学。
まぁ、アルバイトしながら学費を貯めて、また大学受験すればよしと勝手に思い込み、アルバイトしだした頃に心理学授業が始まる。
教員「さぁ皆さん、どうして看護婦さんになりたいと思ったのか発表して下さい」
私「別に看護婦なりたいと思ってませんけど」
教員「あら、じゃあ誰がここへ連れてきたの?」
私「仕方なかったけど、私が選びました」
教員「あら、じゃあ、あなたが選んで来たわけで、誰もあなたを強制的にそこに座らせた訳ではないのね」
私「…・・。」悔しい、悔しい。だが、そうなんだ。私は自分が出したことに落とし前つけるしかない。と急に方向転換。
そこからが本格的且つほど遠いと考えられた看護の道が始まった。
看護専門学校は想像以上に厳しい。
先輩には絶対服従で実習では指導ナース達にこびへつらうばかり。
寮の友人の部屋に泊まらせてもらうと、浴室で髪を洗っている最中に先輩が入室で素早く頭を下げて「こんばんは」と挨拶。
今はかなり改善されたが、分娩で夜中に呼び出されても休みなし。
2時間ナースステーションで立たされ説教ばかりの毎日。家に帰れば記録、試験勉強…。
でも自分で選んだ道だと必死で卒業。無事国家試験合格したが、そこには奨学金返済の地獄が待っていた。義務年限は2年間。
晴れて脳神経外科の新人ナースへ。
現場はきつい、汚い、危険な3Kそのものであったが、何とか一人前になってお金稼いで大学へ行くことだけを考える。
3年経て大学進学。このときは大学行くことだけが私のプライド。
進んだ学科は法学部。
管理を勉強するならば法律を知ることから、と仕事しながらの勉強となった。
常にタイトスカートを意識してのスーツ姿。
だが心の奥底には、次に何をすればキャリアウーマンになれるのかと暗中模索。
だが刑法や民法がちっとも面白くなく、国際法で卒論テーマを書いた。
アメリカのルーズベルト時代の福祉政策と医療制度であった。
そこでまた消えていたあの火が再び燃え始める。
そうよ、燃え尽きてしまったら オ シ マ イ。私はこんな事していられない!
その後の私はようやく看護婦長として、管理の実践に入った。
この看護の世界を征服しようとひたすら努力 努力 努力。アメリカの看護の世界に恋い焦がれてひたすら論文をあさり、周りの上司や先輩の話しを聞く耳持たず。
医師のヒエラルキーぶっ潰せと日夜奮闘しつつマネジメントの世界に憧れ、看護経営と実践の融合を目指すことを考えるようになった。
ここにきて服装はフットワークを重んじてパンツスーツの時代に入る。
その頃丁度、厚生労働省は看護職不足に本格的に政策を立てるようになり、看護業務の改善と称して二交代制導入のモデル病棟として調査結果を提出し、情報共有化やら効率化やらを目的に看護支援システムを某メーカーと共同開発した。
学会活動や幾つかの雑誌掲載、講演などで派手に活躍できた。
そのおかげか看護部の現任教育担当者となり、看護協会研修のオブザーバー等々。
そしてついに3ヶ月間のアメリカ滞在。
3州を巡って現地の病院で実際の教育、業務を体験させてもらう。
サクラメント、フィラデルフィア、クリーブランドの3カ所で州によって異なる医療制度も勉強の中身。
ついに私の頭だけは頂点に上り詰める。
日本の病院組織では看護経営は成り立たないと。よし、やったるぜー!!
その頃ようやく看護部長へ就任。
何をするにもこの医療界は理論武装が必要と考え、誰もが一目置く大学院で研究成果をあげようと考えた。
東京の某大学院医学部医療経済博士課程入学となった。これでようやく憧れの土地で再出発?ところが私は銭を持っていない。
結局私は一度も休むことなく働き続ける事になる。
働きながらそこへ入ってみると別世界。
私の周りには天才しかいないと思うほどのレベルの高さ(それはそうだよ、医学部ですから)
単位は全て取れた。
しかしアメリカのWound Careセンターを日本に持ち込み、日本でそのシステムを取り入れて学位取ろうとしたが研究成果が出てこない。
最終的には満期終了のラベルしかもらえず。
そして追い打ちをかけたのが、この国の医療制度の改革案となったDPC方式。
アメリカで学んできた看護経営はこの国ではだめだと勝手に思い込む。
そして大きなきっかけは年功序列という病院組織の欠陥。
結局、医師会や関連団体、ヒエラルキーの世界しかないのかと看護の世界を引退することにした。
最後は看護管理学会学術集会で「経営に参画出来る看護管理とは」で講演し、まるで山口百恵のさよならコンサートよろしく、聴衆の面前で看護を明日から辞めますと宣言に至った。
私はいつの頃からか母と同じ道を歩みつつ、その現実に直面してしまう。
母よ、手に職持っても、世の中に通用しないことってあるねぇ。