ピース大阪

行ってみた。

その3

 

 

 

 

ピース大阪?

正式名称は

 

「ピースおおさか 

大阪国際平和センター」

です。

 

主に大阪空襲を語り継ぐ

平和ミュージアムですね。

 

入館料

小・中学生は無料

高校生は150円

大人は250円です。

 

但し、65歳以上、障がい者の方は

無料です。

 

但し、これを証明できるモノを

受付で提示する必要があります。

 

 

 

以下の絵は、当時を

体験した方が

描いたものです。

コメントもこの方たちの

ものですが、要約表示

しました。

 

 

 

堺大空襲の模様です。

昭和20年7月10日未明、猛火に追われた

堺市民は土居川の岸で火だるまになり

次々飛び込みました。

その川面に火はたけり、累々たる

死体が浮いていた。

 

この話は当時、堺市で喫茶店をしていた

亡き伯母からも聞いたことがあります。

 

 

 

 

原爆模擬弾(5トン爆弾)が東住吉区

田辺に投下され、20メートル近い

破裂穴のもようです。

この穴には首や手足の無い遺体が

無数にあったようです。

 

この原爆模擬弾のことは知らなかった

ですね。

調べると、死者7名、重軽傷者73名、

消失倒壊家屋485戸という

被害が出ています。

 

この原爆模擬弾は大阪だけだ無く、全国

各地に投下され、死者400名、負傷者

1,200名を超す被害が出ていたようです。

 

このように 米国は原爆を投下するための

準備を着々と進めていたことが分かり、

時代が違うとは言え、今のR国と

何も変わらないですね。

 

 

 

 

昭和20年7月28日午後、近鉄富田林駅で

グラマン(米国戦闘機名)から機銃掃射を

受け、私は畑の中の狭い水路に顔を

突っ込み隠れました。

目の前にナスやキュウリが

ぶら下がっていました。

 

当時の富田林は相当な田舎のはず、

こんなところへも府民を狙った

機銃掃射が行われていたということですね。

 

 

 

 

 

8月15日未明、国鉄京橋駅で空襲で亡くなった

方をタンカで運んでいました。

女学生の方も手伝っていました。

 

1トン爆弾が京橋駅を直撃し、駅舎が

吹き飛び、犠牲者は500~600人と推定

されています。

(内、身元判明者は210名とされています)

前回にも記述しましたが、

慰霊祭は今でも毎年、行われています。

 

 

 

 

 

昭和20年3月14日、西成区鶴見橋、

火だるまになった3歳半の妹を助けよう

として、母も左半身に大やけどを負った。

 

と、ありますが、お二人、

助かったのでしょうか?

絵の通りなら、絶望的です。

このことは、記されていませんが、

ただ、一面火の海とありました。

 

 

これを見ていると、杖をついた

おじいさんが、私に近づき、

「わしもこんな火だるまの人が

こっちに来たんや。

こわ~って思わず、突き飛ばして

もうたんや。自分が逃げんのに

必死やったからな」と。

最初はボランテァ説明員の方だと

思ったが、腕章も無く、そうでも

ないようです。

 

何でもこの方、当時は10代だと言って

ましたが。。?

逆算すると77年前、15歳なら92歳、

おかしくはないですね。

 

 

 

 

港区境川の市電交差点では多くの人が

黒焦げで亡くなっていた。

 

 

 

 

 

地下鉄心斎橋の駅ホームです。

地上は火の海でしたが

ここは無事でした。

 

 

 

 

 

子を抱いた焼死体。

(昭和20年6月1日 港区浮島橋付近)

背に乳児、左腕に幼児をしっかり抱かえ、

渾身の勇を振るって黒焦げになっても

崩れ落ちず、尊像を見る思いだった。

 

とありました。

想像するだけで、親子の無念さを思い、

くやし涙が込み上げてきましたね。

 

 

 

 

 

麦畑の中で授乳中の若い母親、

機銃掃射を受け血だらけになり即死した。

(昭和20年6月7日 豊中市庄内)

 

当時の庄内には麦畑があったのですね。

これは、明らかに戦闘機の低空飛行に

よる狙い撃ちですね。

今、ウクライナで行われていることと

何ら変わりはありません。

 

 

 

 

 

上本町7~8丁目付近の防空壕から

上半身を乗り出すようにし、天を仰いで

母子とも焼死していた。

(昭和20年6月15日)

ただ、乳児はしっかり抱かれていた。

 

 

 

 

 

ラジオから流れる玉音放送を聴く府民。

 

親戚の伯母から聞いた話では、当日、

陛下から大事なお言葉があるので、

必ず、聞くようにとの事前通達が

あったそうです。

 

 

みなさん、これを聞き終わったのですが、

文言が難解で、何を言っていたのか、

分からなかったそうで、数時間後、

どうも戦争が終わったことが

伝わったらしいです。

 

 

 

1937年(昭和12年)完成の御堂筋で、

大空襲前の写真だと思いますが、

いつのものかは、分かりません。

 

ここは、どのあたりでしょうか?

手前の大屋根は南御堂か?

 

当時、「こんな広い道、作って

どないすんねん」が大阪市民の

意見だったそうですが、今やこれが

一方通行ですからね。

「先見の明」がありましたな。

 

 

 

 

これが京橋駅に落とされた

1トン爆弾の模型です。

長さは2メートルを超えます。

 

 

「市民を攻撃しない」というのが、

戦争ルールのように流布されていますが、

いざ、始まると、市民も敵国の一員と

みなし、容赦ない攻撃をうけるという

ことがピースおおさかの展示物が

物語っています。

 

 

北方4島はR国に侵攻を受け、

実効支配されたまま。

 

竹島も戦後、GHQ(占領軍)支配下の

ドサクサに紛れ、K国に実効支配された

まま。

 

 

沖縄は返還されましたが、基地は

そのままですね。

 

 

この基地も含め、全国の米軍基地は

日本を守ってくれるのでしょうか?

 

 

 

紹介したのは、ほんの

一部です。

ぜひ、府民のみなさんも

一度は、足を運ばれ

大阪大空襲があった

ことを記憶に留め、

多くの犠牲者を経て、今の

平和があることを

実感して欲しいと

思います。

 

 

 
 
 
ピースおおさか大阪国際平和センターと
同様の建物が東京にもあり、
「東京大空襲・戦災資料
センター」
です。
 
東京は大阪より犠牲者が多く、
107,000人もの方たちが
亡くなっています。
 
見てお分かりのように規模は大阪と
比較にならず、普通の住宅に見えますね。
 
検索を続けましたが、どうも、これ以外は
見当たりません。
 
10万人以上の鎮魂を考えれば、財政豊かな
都は検討して欲しいものですね。
 
 
(この画像、お借りしました)
 
 
太平洋戦争で唯一の地上戦が展開された
沖縄戦、94,000人もの県民が
犠牲になりました。
生き証人のオジオバたちは、異口同音に
「地獄だった」とおっしゃっています。
 
実に県民の4人に1人が亡くなりました。
 
沖縄県平和記念資料館
 
わが国は 原爆を含めた爆撃だけでなく、
多くの日本兵と一般国民を含め、
57万5,000人を捕虜とし、シベリアで
強制労働させられました。
内、5万8,000人が寒さと飢えで
亡くなりました。
日本兵といっても、元は強制的に兵役徴用
された一般国民です。
これに関しての記録や無念さが、この
「舞鶴引揚記念館」の展示物が
物語っています。
ここへは、2回、訪問しましたが
展示物やボランティアの案内係を
置くなど、充実しています。
 
 
 
これらに関しては、この
記念館が説いています。

 

 

 

 

これ以外にも、こういう実話があります。
終戦間際の8月9日、当時、日本が統治して
いた満州国へソ連(今のR国)が侵攻し、
開拓団で移民した方々が取り残されました。
 
本当の地獄は戦後だったと言って
おられます。
 
 
この取り残されたある開拓団は、地元民
(中国人)から、たびたび、襲撃を受けて
いました。
 
これから守ってくれるよう、侵攻した
ソ連へ保護を依頼しました。
 
代償は若い未婚女性の15人の性接待で、
これにより、開拓団の命が守られましたが、
性病やチフスで死んだ娘さんもいた
ようです。
 
帰国後、犠牲になった彼女らに待っていた
のは、「汚れた満州帰りの娘」と呼ばれ、
差別されたことでした。
 
このことは、以前、NHKにも
取り上げられていました。
 
開拓団の代表から
「皆の命を守るため、すまんが行ってくれ」
と、懇願され、止む無く村のために
犠牲になったそうです。
 
 
 
詳細はコチラをご覧ください。
 
↓  ↓
 
 
 
 

人類史上、核が投下された

広島、長崎。

ここを決して忘れては

ならないですね。

 

広島の犠牲者14万人

(当時の人口35万人)

長崎の犠牲者7万4000人

(当時の人口24万人)

 

 

 

 

 

 

最後に。。
 
以前にも記しましたが、平和日本の今でも
起きる災害や事件、犠牲者が多くなるほど
記憶に残りますが、〇万人単位になると、
人の死にもかかわらず、ざっくりした
統計数値になってしまうという
人間の感覚が、恐ろしいと思います。
 
 
おしまい。