河内街道をポタリング その1
 
河内街道は淀川沿いの京街道(現在の枚方市)から分かれ、
寝屋川市、四条畷市、大東市、東大阪市、八尾市までの
ルートである。
途中、大阪(高麗橋)と奈良の最短ルートであった暗がり奈良
街道と交差し、さらに南進すると奈良街道に繋がるという
南北の街道である。
 
この奈良街道(大和街道)は現在の浪速区恵美須町で
紀州街道から分かれ、柏原を経由するルートで、現在の
国道25号線と並行する昔道である。
 
河内街道の距離は約25キロで、街道の中でも短い方である。
いつものように三種の神器であるポケットワイファイとタブレット、
それに「今昔マップ」サイトの地図表示。
 
以前にも紹介したが、このサイトの地図発信情報は素晴らしい。
 
手順として、まず、KTGIS.netへ入る。
 
このページの3タイトル目にある「スマートフォン等で位置情報を
使用する場合」をクリックすると、「今昔マップ」の画面へ移動する。
この画面で京阪神圏をクリックすると、年代別の地図が選択できる
ページが表示する。
 
 
旧街道を探索するには1892~1910年をクリックし、この地図を
表示させる。GPS相性が良く、誤差が小さいのが特長である。
また、現在地表示や軌跡表示も設定できるのが便利だと思う。
 
この1892~1910年は明治25年~明治43年に当たり、伊藤博文や
大隈重信が活躍していたころで、ほぼ江戸時代の地図だという
見方をしてもいいと思う。
 
ということで、自宅の最寄り駅から輪行で京阪枚方公園駅へ。
 
 
この時代では今の「枚方公園駅」が「枚方駅」だった。
一方、今の「枚方駅」は「枚方東口」という駅名だったことが
分かった。
この京阪電気鉄道が出来たのも1905年(明治38年)で
この地図の完成時期とほぼ同時期になる。
 
 
枚方公園駅前から淀川沿いにある京街道へ。
 
 
 
 
 
今は大阪京都のサイクリングロードになっている。
 
 
この河川敷ロードのすぐ前が旧1号線で昔は京阪国道と呼ばれていた。
 
 
 
枚方公園北側駅前には東海道枚方宿の案内板が建ててある。
 
 
GPSによると街道のこの辺は京阪のレールほぼ同上にある。
 
当時の地図では枚方町であった。
 
 
実際の街道は道幅がここまで広いことは無いと思う。
事実、この街道の南側にもウネウネした道が並行しており、
こちらが、河内街道の旧街道にあたるかも知れない。
 
 
光善寺駅を通過した。
当時の地図ではこの駅は無い。
 
 
香里園駅を通過。
ここへ来るのが久し振りだが駅と駅前が整備され、きれいに
なっていた。
 
明治の地図ではこの駅は存在しているが、周辺は田んぼである。
そして、駅名も「香里」であった。
 
 
香里園駅を通過すると並行していた京阪線から外れ、香里南口
交差点へ出る。
 
ここは170号線、通称外環状線である。
 
 
この近くでアクシデントが発生した。
歩道から車道へ敷いてある鉄板で、自転車が横滑りして転倒。
右側の膝とひじに大きな擦り傷を負い最近になり、やっと治ってきた。
幸い、頭も打たず、骨折も無かったが、転倒した時に、目の前が
黄色くなり、しばらく立ち上がれなかった。直後、座って体を休めたが、
このときの記憶が無く、どれぐらいの時間経過だったのか分からない。
 
 
ふと気が付くと午後の1時過ぎ。
気を取り直して、ファミレスランチしたが、出血もあり、
キズも痛むので、折り畳んだ自転車をタクシーに積み、
帰宅することも考えたが、進むことにした。
 
(帰宅後、クスリ屋で特殊なキズシートを買った。
何でも消毒は水で流すだけ。あとはこれを貼り、3~4日ごと
貼り替えるだけで、塗り薬はいらない。昔からこういうキズ
はかさぶたができて治るものだが今は、かさぶたを作らせない。
保湿を保ちながら人間本来の治癒力で治すというものだそうで、
結果的にかさぶた無しで治すことができた。最近の医学はスゴイ。
 
 
街道ルートは寝屋川警察を右に見てこの豊野交差点から左(東)へ
入る。 むろん、当時は一帯が田んぼで家も建っていない。
 
ただ、この辺から迷ってしまう。
現在の街並みから街道が消えてしまっているのだ。
GPSが示すのは建物の中だとか。。。 道そのものが無い。
 
こういうシーンでも、自転車は素早く動けるので便利。
歩きなら、右往左往、疲労困憊というところか。
 
 
GPSではニコニコパチンコの裏道が街道を示していたのでルート復帰。
 
上山病院の裏側にあるこの道が街道である。
 
 
直進して行くと寝屋川市の高宮エリアに入る。
当時、豊野村高宮で、近くの太秦と並び、家も結構建っていたようだ。
 
<続く>