白雲の城 ~備中松山城散策~ | 歴史男子(半ちゃん)が語る日常と歴史ロマン記

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昨日の快晴晴れが嘘のような、土砂降り雨

本当に花散らしですが、これでまた季節が一つ進みますねルンルン

 

そんな今日は早めに帰宅出来ましたが…

雨で走れないので、また一つ記事が捌けます(;^_^A

 

 

4/8(土)備中散策に向かいましたが、訪れたのは、津山城・備中松山城・備中高松城の三城。

 

徳島を出発したのが、午前5時30分車

 

天気予報は、終日雨でしたので、津山城で雨が滴る桜花見をメインとしていましたが…

7時30分くらいに、岡山県高梁市付近を通過中に晴れが垣間見えました。

 

これが元で、寄り道あせる

 

目的はこれ↓

 

さあ、来いビックリマーク

霧が濃いあせる

 

見事に天気を読み誤った感がありますが、これはこれで楽しい時間でした(≡^∇^≡)

 

そして、桜で賑わう津山城へ向かったのですが…

津山城記事はまた次回で。

 

 

津山城から戻ってきて、備中松山城へ登城しようと思いましたが、まずは朝のリベンジなるかビックリマーク

結果は朝と何も変わらず(笑)

 

二度までも同じ手に掛かるとは…

戦国時代なら殺されています(笑)

 

でも、人生も旅も楽しむことがモットーなので、こういう天気もヨシルンルン

 

雲海に浮かぶ備中松山城を諦めて、現地へ車

いざ、参るルンルン

 

登ること約10分くらい。

大手門の石垣о(ж>▽<)y ☆

キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!

何度見ても…って、二度目ですが、やはり圧巻の石垣群ルンルン

 

こちらが前回(2010年11月)登城の時ルンルン

やっぱり晴れ晴れだと画になりますねо(ж>▽<)y ☆

 

家に戻って、比較すると、晴れて欲しかったと思う旅心。

 

 

本当に圧巻ですо(ж>▽<)y ☆

 

三の丸広場付近もやはり晴れ晴れが下手くそな写真もキレイに見せる(笑)

 

そして、さらに登ること約5~10分。

 

霧隠れの天守も素敵ですが、やはり晴れ晴れって最高のスパイスだと思いますルンルン

 

リピートしたから見えることですが、天気って凄いよね~

今更ながらに感心します(≡^∇^≡)

 

しかし…

写真を撮るセンス(角度)は、やはり同じ(笑)

 

でも晴れ晴れって、本当に凄いなぁ~

同じ人間が撮影しても、全然別物みたいに見える部分が多いですあせる

 

天守に向かって、右側からルンルン

 

正面からルンルン

 

ちょっと遊び心で演出ルンルン

 

前回は城下町まで、キレイに見渡せた天守内部でしたが、今回は全然でした(;^_^A

 

でも厳かな雰囲気のある現存天守ルンルン

 

2016年大河ドラマ『真田丸』で、すっかりお馴染みとなったこの角度(笑)

 

備中松山城の画像に3D加工を施して、オープニング映像にしていましたルンルン

 

二重櫓越しの天守ルンルン

 

本当に凄いですо(ж>▽<)y ☆

現代まで残る史跡備中松山城。

自然の岩肌の上に、石積みを築き、櫓や天守を築いた古の人々。

ホンマに感動するお城でしたルンルン

 

 

【備中松山城の歴史】

要約すると、こんな感じルンルン

 

大松山、天神の丸、小松山、前山の四つの峰を持つ標高480mの臥牛山(がぎゅうさん)の一峰である小松山(標高420m)の山頂に築かれました。

延応二年(1240年)に備中国有漢郷の地頭となった秋庭重信が山城を築いたのが始まり。

築城当初は、大松山の山頂を削って本丸を置いただけでしたが、五代の時を経て、小松山までの四峰を従える巨大な山城となりました。

 

その後、戦国時代には、宇喜多氏・尼子氏・毛利氏といった中国地方の覇権を争う大勢力の闘争に巻き込まれます。

 

元亀二年(1571年)に、三村元親が城主となり、大勢力に備えて、要塞化を図ります。

 

しかし、厳島合戦で陶氏(大内氏)を破り、ライバル尼子氏を滅ぼした毛利氏の前に三村元親は敗れ、備中松山城は毛利氏支配となります。

 

関ヶ原合戦で毛利氏が敗れて、徳川配下である小堀正次・政一(遠州)親子が備中松山城主となります。

 

その後、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変遷し、明治維新に至ります。

 

 

【関連の歴史①】

城主であった水谷氏が断絶後、播州赤穂城主であった浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩が、城の受け取りを幕府より命じられます。

家老であった大石内蔵助は、在番役として一年ほど城に留まっていたそうです。

 

その後、有名な『刃傷 松の廊下』で、播州浅野家が断絶となり、今度は浅野家が赤穂城の受け渡しを行う側となります。

 

何とも切ない話ですが、主君の仇を討つために世間の批判を耐え忍び、自らの命と引き換えで大願成就させた大石内蔵助を始めとする忠臣たちも関わったお城でした。

 

 

【関連の歴史②】

戦国時代に毛利 VS 尼子の勢力争いが行われた中国地方。

 

尼子家が敗れて、滅亡します。

尼子家再興を願う、山中鹿之助は主家滅亡後に何度となく、反毛利を掲げて戦いを挑みます。

囚われても逃げ出し、また抗いを何度も繰り返します。

 

鹿之助の執念を恐れた毛利家は、播磨(上月城)で囚えた鹿之助を本国の安芸(広島)へ護送中に、この備中松山城下で暗殺したとも、処刑したとも伝わります。

 

今でも城下にお墓が残っていますが…

 

僕はまだ訪れたことが無いので、またお参りに伺います。

 

どんなに苦汁を舐めても、挫折せずに大願成就を目指す心には、どんな強大な力も恐れを抱くと言う典型だと思います。

 

毛利ほどの大国が、たかが敵の一武将を恐れるなんて…

備中松山城は、どうやら忠臣に縁があるお城のようですねルンルン

 

ちなみに僕の大好きな戦国武将ベスト3の一人ですо(ж>▽<)y ☆

 

竹中半兵衛公、大谷吉継公、山中鹿之助公。

やはり義理や人情の話に人は弱い(笑)

 

争いが当たり前の時代に、争いを避ける策を献じたり。

負ける覚悟で挑んだり。

勝算なんて無いのに、諦めずに足掻く。

 

現代にも十分通用する生き方だと思います(≡^∇^≡)

 

 

長くなってきたので、最後は前回登城した時の雲海の画でルンルン

 

歴史深く、素敵な備中松山城旅でした(≡^∇^≡)

 

 

次はここへ↓

日本人が美しいと感じる要素を集めた津山城編ルンルン