今日は「東へ西へ」の「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういう訳だ」に着目してみたい。いきなり「そんなのあたりまえだろう」とツッコミを入れたくなるような出だしである。前回、この部分は新曲の構想をあれこれ考えていて眠れないと書いた。それでは何故ストレートにそのような歌詞にしなかったのかという点であるが、それは「人生が二度あれば」から推測できる。「仕事に追われ このごろやっと ゆとりができた」と親父の事を歌っている。歌手になることを親父に認めてもらうためには、この程度のことで忙しいなんて言ってられないと思ったのだろう。再デビューしたばかりで先行きに不安をかかえ、まだまだ頑張らなけれはならない状況であったことを考えるとうなずける。
また別の観点から言葉と遊んでいるところがあるとも書いた。それが顕著に現れているのが、1969年6月にデビューした時の、芸名アンドレ・カンドレ、曲名「カンドレ・マンドレ」である。どちらもそれなりの意味があるのであろうが、どちらも「なんだこれは」という印象である。お笑い芸人が滑ったような結果に終わっている。陽水らしさとでも言えるこのような歌詞は「My House」で顕著に見られ、曲全体が遊んでいるようなニュアンスである。陽水らしさが遺憾なく発揮されているのではないだろうか。主張したいこと、訴えたいことを自問しつつ、それをわかりやすく表現することが作詞の手順のような気がするが、その途中段階で完成させてしまっている。真面目なのか不真面目なのかわからない人である。
更にこんな見方もできるのではないか。世間一般には当たり前と思われていることに疑問を投げ掛けることである。しかもその疑問は本心ではないようだ。例えば「傘がない」である。1960年代学生運動が盛んな頃、自殺の増加などの社会問題や日本の将来への不安を憂い、自分の力でなんとかしようとする学生たちとそんな周囲の熱気に追い立てられて何かをしなければとみんなが思っていた頃、この歌は、そんなことより今日彼女に会いに行くんだけど、雨が降っていて傘がないことが俺にとっての問題なんだよという意味に聞こえる。しかし自殺に関して言えば、陽水は無関心を装っているが、本心は守ってあげられる傘がどんなものかを考えてほしいと言いたかったのではないかということである。「傘がない」の傘とは人を守るための象徴で、そこに気付いた若者は一本取られたと思ったであろう。