今日は「スニーカーダンサー」について考えてみたい。1979/9アルバムの主題歌である。まずタイトルであるが、昨年のブログ「能古島の片思い」でも書いたが、陽水がラジオ番組で、ビートルズについて次のように語っている。「私は人前で踊るという気になかなかならないんですが、ビートルズが目の前で演奏していたら、きっと踊れるだろうなと思うぐらいの傾倒ぶりなんですよ」と。踊るなんていうことは陽水にとってはあり得ないことの例えではないだろうか。これまでに繰り返し述べてきたように1980年代に新たに取り組んだ多くのミュージシャンへの楽曲提供のことなのだろう。様々な曲で表現されていることから、陽水にとって多大な苦痛と共にヒットメーカーへと変貌を促した出来事でもあったと思われる。
「呼びとめないでおくれ 間違わないでおくれ 俺は不思議な動きをするけど 道に迷ってるのではない」。「白い一日」や「いつのまにか少女は」のように共作は時々あったが、他のミュージシャンのために曲を作ったのは、1980/9山口百恵さんへの「クレイジーラブ」が最初ではないだろうか。その前の1977/4石川セリさんへ提供した「ダンスはうまく踊れない」はあるが。再デビューしてからの陽水の曲を見ていると、幼少の頃の出来事や身近で起こっている事をどうとらえているか、何を感じいるかということのように思うので、例えば「クレイジーラブ」でいえば、引退について百恵さんがどう思っているのかを想像するところから始まるのであろうから、曲作りのプロセスが相当難しくなるのではないだろうか。それを敢えて行おうとする背景には、並々ならぬ決意があったと同時に、なにがなんでも成功させようとする必死な姿勢がヒット曲を産み出したとも言えるのである。
「曲り角では君が 歌にあわせて泣いた 」。何か1年後に起こるであろう百恵さんのさよならコンサートを予言しているような歌詞である。「問いかけないでおくれ 追いかけないでおくれ俺は止ってるのでもないし 旅を続けてるのでもない」。曲づくりに集中している姿が浮かんでくるようで陽水の真面目な性格と勤勉さが現れたような歌詞である。
最後に他のミュージシャンへの楽曲提供で思い出したのであるが、「灰色の指先」でも書いたが、陽水は20代後半から30代にかけて作家の五木寛之さんや黒鉄ヒロシさん等と共に夜の酒場での付き合いやマージャンを頻繁に行っていたようである。そんな付き合いの中で、例えば作家が伝記を書く時の手法などの影響を受けていたのではないだろうか。私が好きな渡辺淳一の「遠き落日」などを読むとどんな両親の基で生まれどんな幼少期を過ごしたかなど、その人物に関連する事柄をさまざまな観点から収集しているのがわかる。例えば麻雀をしながら、「こんど、百恵さんから歌を作ってくれないかと頼まれてね」。そうすると黒鉄さんが「なんか、本当は辞めたくないらしいよ」と。こんな会話から「月が私を許すなら 後もどりもしたいわ」という歌詞ができたのではと想像すると面白いのではないだろうか。