今日は「おやすみ」について考えてみたい。「もう すべて終ったのに みんな みんな終ったのに」と繰り返しているが、何が終わったのであろうか。この曲はアルバム「氷の世界」で最後に収録されたものではないかと思われ、再デビューしてリリースされた「断絶」及び「陽水Ⅱセンチメンタル」も含めて、心の奥底にしまい込んでいて気にかかっていたことを全て曲とすることができたと言いたいのではないだろうか。
「あやとり糸は昔 切れたままなのに 想いつづけていれば 心がやすまる」。あやとりは幼少期の思い出なのだろう。やりたかったけどできなかったことで思い出されるのは、例えば「小春おばさんに会いに行って昔ばなしを聞きたい」ことではないだろうか。どうしても会いたいと思い続けていた気持が、曲にすることで心が休まるという感覚なのだろう。またちょっとはっきりしないが、「妹を自転車のうしろに乗せて行った夏まつりでは、妹に綿菓子を買ってあげれば良かった」と思っていたのかもしれない。妹はもらったおこずかいでたぶん綿菓子を買ったのであろう。妹思いの陽水なら心に引っ掛かっていたのかも知れない。
「偽り事の中で 君をたしかめて 泣いたり笑ったりが 今日も続いてる」。偽り事と君を確かめたで思い出されるのは次のようなことではないだろうか。「僕が20才になった時君に会い 君が僕のすべてだと思ってた すてきな君を欲しいと思い求めていた 君と僕が教会で結ばれて 指輪かわす君の指 その指が なんだか僕は見飽きたようで いやになる」。君がすべてだと思っていたけど、本当はそうじゃなかったと。またそんな思い過ごしのようなことは今も続いていて、泣いたり笑ったりしていると。
「深く眠ってしまおう 誰も起すまい あたたかそうな毛布で 体をつつもう」。気にかかっていて心に引っ掛かっていた感情を全て曲として書き上げたことで、誰からも邪魔されることなく眠ることができるという心境になっているようだ。このブログの最初にデビュー曲である「カンドレ・マンドレ」で「一緒に行こうよ 私と二人で愛の国 きっと行けるさ 二人で行けるさ夢の国」となにか現実とはかけ離れた歌詞が再デビュー曲の「人生が二度あれば」では一番身近な両親のしぐさへと変貌していることに注目したいと書いたが、その集大成のようなアルバムが「氷の世界」であると陽水は思っていた、いや思いたかったのではないだろうか。しかし言葉の端々から全て表現できたという感覚はないようだ。