今日は「曲り角」について考えてみたい。1976/3アルバム「招待状のないショー」に収録されている。このアルバムのライナーには陽水直筆のメッセージが添えられている。その一文に、「自分の職業に格別の誇りもなければこれといってうしろめたい事もない」と書かれている。歌がヒットして有名になれば、自身の才能を誇らしく思えるのに、そうは思わないとは何故だろう。初期の楽曲の「紙飛行機」や「夕立」で語られているように、順調だった状況が、突然の雨によって飛べなくなったり計画が全部中止になったりすることがあるよと頭をよぎっているのかもしれない。「氷の世界」の後とは言え、デビューして鳴かず飛ばずの時期があり再デビューして日が浅いことで「もう大丈夫」という感覚はないのであろう。そんな状態ではちょっとしたつまずきも気になるのだろう。
また「人はこうあるべきだ」というような常識のようなものに拒否反応を示しているようだ。例えば「人には優しくすべきだ、とか親友はいた方がいい」とか。同時期にリリースされている「青空、ひとりきり」に「仲良しこよしは 何だかあやしい」という一文がある。友達とか親友という言葉に疑いを抱いているようであるが、しかし同時に羨ましいという感情が読み取れるとも前に書いたが、他人を心の底から信用できないから信用できる人とその人間関係が羨ましいという気持ちもあるのであろう。
「俺は曲り角で こけた ほんの少し みんな 笑いころげ 俺はいたく傷ついた」。日常でのちょっとした失敗で、自分にとっては取るに足らないことなのだが、その事が重大事件のように取り上げられて大笑いされたことに対する不満が述べられている。「人に接する時はやさしすぎない様に」。俺のそんな取るに足らない失敗なんか、見て見ぬふりをしてくれればいいのだが、やさしさからか敢えて大げさに指摘されてしまうことに不満を抱いているようだ。「俺はひざをすりむき 歩きが、いやになった みんなは「なんのそれしき もっと歩き、こけろ」と言った」。そんな俺の抱いている不満も知らずに、もっと頑張るべきだと励ましているようだが。「友達が出来た時は深い仲にならぬ様」。深い仲になっているせいで余計なおせっかいまでやかれるので、そこそこの付き合いでいれば良かったと。「みんな曲り角で こけろ!! 俺の様に 俺がそれを言うと みんな、あきれはてた 」。こけてない人に「こけろ」と言うのは相手を不快にさせるだけだと思うが。
私のサラリーマン時代を振り返ると、そんな時はみんなで居酒屋でも立ち寄って憂さ晴らしでもすれば、それで済んだことなのではないだろうか。だか陽水の場合は、そんな機会はなく、歌として世の中に出さざるを得ないのかもしれない。今日の文章はまとまりがないが、この歌は真面目な人間が歌手という一握りの才能の持ち主だけが生き延びられる職業を続けて行く時の不安な心の叫びのようなものなのではないだろうか。