今日は「灰色の指先」について考えてみたい。1978/7にリリースされたアルバム「White」に収録されている。灰色の指先というタイトルから何故か石川啄木の短歌「一握の砂」の一節「はたらけど・・・ぢつと手を見る」が頭に浮かんできたので、後で調べてみたいと思う。私事だが、私の故郷の函館に石川啄木の座像があったので、頭に浮かんできたことと関係があるのかもしれない。
同じアルバムの「迷走する町」でも書いたが、大麻で逮捕され拘置されていた時の一般社会からの疎外感が激しかった状況で、じっと手を見ながらこれまでの自分の過去を振り返っているのではないだろうか。「彼の性格はひどい無口 声の出し方を忘れたよう 20才まえまでは誰にも会わずに いつも壁のそばに居た」。陽水がデビューしたのが1969/6で20才の時であるので、それまではエッセイ集「綺麗ごと」で書いているように人より会話のコミュニケーションが不得意であると告白していることを言っているのである。まるで拘置所にてじっとしている今の状況のようだと。
「彼の職業はプレス加工 アルミニュームを曲げてのばす 指先の色もいつしか変わって とうに指紋はなくしてた」。拘置所にてじっと手を見ていると、弦を抑えることで指紋は消え、まるでプレス加工職人のようだと思ったのかもしれない。「灰色の指先で毎日をなぞっても 数えても重ねても仕事場は流れ作業」。作詞作曲と歌手を兼ねた活動は、我々からは「流れ作業」には到底見えないのであるが、陽水自身としては、同じようなことの繰り返しで、「流れ作業」だと感じているということか。逮捕によって拘置されたことで、これまでの活動がそのように感じられたのであろう。
「彼が恋したのは街の女 彼を受けいれた ただの女 悲しみも喜びもない時間が 遠いゆるやかな記憶」。このフレーズは、1974/1の最初の一般女性との結婚についてのことを言っているのであろう。実際の結婚生活はどうだったかは別として、単調で楽しいものではなかったと感じているようだ。「街の夕暮れにイルミネイション 彼は人ゴミにとけてしまい」。20代後半から30代にかけて作家の五木寛之さんや黒鉄ヒロシさん等と共に夜の酒場での付き合いやマージャンを頻繁に行っていたようなので、そのことを言っているのであろう。この交流で無口だった性格が徐々に饒舌に変わって行ったのではないだろうか。「この街で205人が今日生まれ 203人の死亡」。作詞作曲した楽曲で、出来栄えに満足した曲は、ほんの1~2曲であると言いたいのだろうが、この悲観的な感情も拘置所での生活から生まれたものなのではないだろうか。
最後に石川啄木の短歌は、働いても働いても生活が苦しい状況で、じっと手を見ているという意味のようであるが、私生活では汗水流して働くタイプの人間ではなかったようだ。この辺のギャップが興味深い人物であり、陽水の置かれている状況とは全く違っているが、原因はどうであれ絶望感を抱いてじっと手を見ている姿は似ているように思うのだが。