今日は「白い船」について考えてみたい。 1972/5リリースのアルバム「断絶」に収録されている。別れることがほんとうに辛いという心の叫びが素直に表現されているのではないだろうか。暗い演歌調のどんよりとしたメロディーが辛さを強調しており、憧れである船による別れの場面に例えている。心の底から辛いと感じている別れとは、何に対する別れであろうか。
「港を出る白い大きな この船が あなたを今つれてゆくのか この船が」。分かれようとするあなたより白い大きな船が主役のように聞こえる。また陽水は白い色が好きなようだ。初期の楽曲でも、「限りない欲望」の白い靴、「白いカーネーション」、そして「ゼンマイじかけのかぶとむし」の白いシャツである。また同じような場面が「能古島の片思い」でも「遠くに見える灯は 南へ行く船の幸せかな」というフレーズがあり、この曲では小学生か中学生の頃の同じ学校の好きな女の子か又は姉の京子さんが、結婚でもして離れて行く寂しさを語っているのではと書いたが、「白い船」では、離れて行く人が幸せそうには語られていないように感じる。
「 一度見たら忘れられぬ 白い船が僕の人をのせている」。船が岸壁から離れようとする時には、別れようとする相手が何処にいるのか探そうとして、どんな船に乗っているかは注意が行かないものなのに、忘れられないような船と言っているのは何故であろうか。「数えられぬテープの色があざやかだ そんなテープの影に見える僕の人」。たくさんのテープが舞っているが、僕の人よりテープが主役になっているとはどういうことだろう。「それはまるで虹の中を 迷いながら僕を見てる鳥のよう」。陽水から離れて行く人も、別離を迷っているということか。「とても僕は見ていられずに目をとじる  だけど船の汽笛は僕に泣けという とじた まぶた 涙 流れ 白い船が僕の人をのせている」。別れが辛くて男泣きしているが、同時に船そのものが泣けと語りかけている。
ここで改めて「白い船」の意味について考えてみたい。白い船そのものが象徴として語られているのではないだろうか。子供の時に欲しくて母にねだり手に入れた白い靴、子供の頃には何も感じてなかったけれども今では不思議なくらいに綺麗だと思える白いカーネーション、そして子供の頃に汚しちゃいけないといつも気をつけて着ていた白いシャツ。子供の頃の思い出とそれらを育んだ故郷の全てを乗せた白い船、しかもたくさんの思い出を乗せる大きな船なのだろう。
陽水として再出発するために故郷と決別しなければならないが、心の底では本当に辛いことだと感じているようだ。しかし、その後の陽水の軌跡を見ると、子供の頃の思い出が楽曲として生まれ変わり、本当の意味での決別とはなっていないのではないだろうか。